野村胡堂 銭形平次捕物控(巻四) 目 次  井戸端の逢引  雪丸の母  八五郎子守唄  濡れた千両箱  井戸端の逢引     一 「ヘッ、ヘッ、親分え」  ガラッ八の八五郎は、髷節《まげぶし》で格子戸をあけて、——嘘をつきやがれ、髷節じゃ格子は開かねえ。俺のところは家賃がうんと溜っているから、表の格子だって、建て付けが悪いんだからと——、銭形の平次は言やしません。  ともかく、恐れ入った様子で、明神下の平次の家へ、八五郎はやって来たのです。 「こっちへ入んな、何をマゴマゴしてるんだ」  平次はツイ、長火鉢の向うから声をかけました。入口の障子を開けると、家中が見通し、女房のお静が、お勝手で切っている、沢庵の数までが読めようという家居《いえい》です。 「それがね、親分、少し敷居が高いんで、ヘッ」 「いやな野郎だな、敷居が高かったら、鉋《かんな》でも持って来るがいい、土台ごと掘り捨てたって、文句は言わねえよ」 「そう言われると面目しだいもねえが、あっしは生れてからたった一度、親分に内証で、仕事をやらかそうとしたんで」 「なんだ、そんな事か、恐れ入ることは無いじゃないか、お前も立派な一本立ちの御用聞だ、うまい具合に酒呑童子《しゅてんどうじ》を縛って来たところで、俺は驚きはしないよ、いったい何をやらかしたんだ」  銭形平次は一向気にする様子もありません。それよりは、いつまでも平次の子分で甘んじている八五郎を、早く一本立ちの立派な御用聞にして、嫁でも貰ってやりたい心持で一ぱいだったのです。 「それが、そのね、最初から話さなきゃわかりませんが——極りが悪いなア、親分」  八五郎は言いそびれてポリポリと小鬢《こびん》を掻いたりするのです。 「極りなんか悪がる面《つら》じゃないぜ、お前は」 「極りの方で悪がる面でしょう、その台詞《せりふ》は何度も聴きましたよ、——ところがね、親分、あっしが、生れて始めて、恋文《こいぶみ》をつけられたとしたらどんなもんです」 「ウフッ」 「嫌だなア、そう言う下から、親分はすぐ笑ってしまうでしょう」 「笑わないよ、笑わないと言ったら、金輪際《こんりんざい》笑わないよ、俺は今、死んだお袋のことを考えているんだ」 「笑わなきゃ言いますがね、天地紅《てんちべに》の半切《はんぎれ》に綺麗な仮名文字で、——一筆《ひとふで》しめし上げ、まいらせそうろう——と来ましたね、これならあっしだって読めますよ」 「その手紙はどこにあるんだ、俺が読んだ方が早く埒《らち》があきそうだ」 「口惜《くや》しいことに、書いた娘に取り戻されてしまったんで、もう読んだ上は要らないでしょう、とグイグイ」 「なんだいそのグイグイというのは?」 「丸い肱《ひじ》で、あっしの脇を小突いたんですよ」 「まあ、そんなことは、いずれ春永《はるなが》に伺うことにして、手紙の文面は」 「一と筆しめし上げ参らせ候《そろ》」 「それはわかった、その先は?」 「八五郎親分様には、いよいよ御機嫌のよし、目出度く存じ参らせ候」 「わかった、その先は?」 「今夜|亥刻《よつ》(十時)過ぎ人目を忍び中坂下の井戸のところまで御出で下されたく、命をかけて待ち上げ参らせ候、かしく——と、こういう手紙を、親分に見せられますか」 「相手は誰だ」 「こと——とだけ、なんにも書いちゃ居ません、でも若くて綺麗な女には違いありませんね」 「恐ろしい早合点だな、どうして若くて綺麗なんだ」 「文使《ふみつか》いの親爺が言いましたよ、——親分、奢《おご》って下さいよ、この手紙を、十九か二十歳《はたち》の可愛らしい娘に頼まれましたよ、——とね、それから」 「まだあるのか」 「あとは口上で、——決して怪しい者では無い、お目にかかればわかります、どうぞ助けると思って、あの井戸のところまで、お出で下さい——と」 「行って見たら、お化けが出たという話じゃないのか」 「そんな間抜けな話じゃありませんよ。現にこのあっしが」  八五郎は首を縮めてニヤニヤするのです。     二  その晩、八五郎は、大めかしにめかし込んで、九段の中坂までやって来ました。と言っても目印の井戸のあったのは坂下で、そこで逢引しようというのは、少し薄寒くもありましたが、そんなことを考えても居られません。  第一手紙は八五郎にも読める仮名文字ですが、筆跡もまことに見事で『こんや来ておくれよ、後生だから』とよく羅生門河岸《らしょうもんがし》のあの妓が書いてよこすのとは変り、方式どおり天地紅の結び文、開くとプーンと白檀《びゃくだん》が匂って、文字だってなんとか流の散らし書きで、まいらせそうろうかしく——と優にやさしく結んであるのです。  その頃の九段は、今からでは想像もつかない淋しいところでした、井戸は九段下にも、中坂にも明治の末まで残って居り、決して逢引などをする場所ではありませんが、八五郎をこんなところに呼んだのは、なんか思惑があっての仕業でしょう。  江戸一番のフェミニストの八五郎は、そんな事を考えるようには出来ては居ず、浮世草紙の若旦那が貰うような名文を貰って、すっかり有頂天になったのも無理のないことでした。  時候は二月の末、梅には遅く桜には早く、忍ぶには誂《あつら》え向きの月のない晩ですが、井戸の側まで行くと、——合図の手拭かなんかでしょう、チラチラと白いものが、八五郎を招くのです。 「八五郎親分でしょう」  優しく香《かぐ》わしく、ほのばのとした若い声でした。 「俺は八五郎に違げえねえが、お前さんは?」  八五郎は闇の中を透《すか》しました。 「あれ、知ってるくせに、柳屋の琴《こと》じゃありませんか」 「あ、お琴さんか」  八五郎は胆をつぶしました。美しくも、やさしくもあるはずです。飯田町二丁目、ツイそこの裏路地に、近ごろ暖簾《のれん》を掛けた小料理屋の娘で、お琴、お糸という姉妹の一人、なかなかのきりょうと、取まわしのよさに、界隈の安御家人、中間小者《ちゅうげんこもの》の間に、大した評判になっている娘だったのです。いや、暗くてよくはわかりませんが、その蓮葉《はすっぱ》な調子から、姉のお琴に間違いもありません。 「でも、よく来て下すったわねえ、——お狐にでも化かされると思ったでしょう」 「なんだって、こんな古風な手紙なんかで呼び寄せたんだ」 「人様に書いて頂いたんですもの、色文《いろぶみ》なんか、人に頼んで書かせるものじゃありませんわね、そりゃもう、じれったいということは、ウッフ」  こう含み笑いをされると、八五郎はどんな不合理も忘れてしまいます。 「で、どんな用事なんだ」 「ま、極《きま》りが悪い、親分という人は、開き直って訊いたりして」  叩いた袖がフワリと宙に浮いて、柔かい娘の腕だけが、八五郎の首筋に触ると、サラサラと頬を撫でる洗い髪が、八五郎の胸をときつかせます。 「わかった、わかったよ、もうなんにも訊かねえが、ここに立って居ちゃ、寒くて叶わねえ、お前の家へ入ろうじゃないか、ツイそこだもの」 「それがいけないの、——うちの主人は、岡っ引とゲジゲジが大嫌いで——ま、御免なさい、ツイそんな事を言ってしまって」 「構わないよ、それから」 「少し我慢して下さいね、私は八五郎親分と、ゆっくり話して居たいんですもの」 「それはいいが、こう暗くちゃ」 「構わないじゃありませんか」 「でも、顔だけでも拝ましてくれよ」 「勘弁して下さい、私がここに居るとわかると、困ったことになるんです」  少し行くと、柳屋の灯《ひ》が射して、お琴の顔くらいは見えるのですが、あの中には、顔を見られたくない人が居るとやらで、娘は井戸端を離れようともしません。 「で、俺を呼び出した用事は?」  八五郎は危うく職業意識を取り戻しました。お琴の態度は、申し分なく馴々しく、色っぽくさえあるのですが、ただ簡単な情事《いろごと》で、八五郎を呼び出したのでは無さそうです、 「いろいろ聴いて頂きたいことがあるんです、私の身分や素姓、それから今困って居るいろいろのこと」 「話すがいい、聴いてやろうじゃないか」 「あれ、また、あの人が来て、私を捜して居る、本当にどうしましょう」  そう言えば柳屋の家の中では、酔った男のわめく声が、井戸端まで手に取るよう。 「誰だえ、あれは」 「三丁日の大野田仁左衛門《おおのだにざえもん》の倅金之助、旗本だか、なんだか知らないけれど、毎晩|亥刻《よつ》というと、ここへやって来て、私を追いまわすんですもの」  お琴は、たまらなそうに身を揉むのです。 「でもこうして居ては悪かろう」  八五郎は大通《だいつう》のように粋《いき》をきかせました。せっかく呼んでくれたお琴は、自分になんか話したいことがある様子ですが、いつまでも引留めていては、お琴のために、悪かろうと思ったのです。 「それじゃ、ちょっと行って宥《なだ》めて来ます、ちっと待って下さるわねえ」 「あ、いいとも」 「帰っちゃ嫌よ、本当に、八五郎親分に聴いて貰いたいことがあるんだから」 「大丈夫帰りゃしない、夜っぴてでも待っているよ」 「嬉しいわ、では指切り」  真っ暗な井戸端、手と手を探るように指切りをすると、綿細工に血の通ったような、でもヒヤリと冷たい娘の掌《てのひら》が、八五郎の感触に、異る興奮を誘うのです。     三  しばらくすると、酔っ払いのダミ声が鎮まって、娘はまた井戸端に帰って来ました。 「お待ち遠さま」  言葉少なに言って、そっと八五郎に寄り添うと、こんどは化粧を直して来たのか、伽羅油《きゃらあぶら》の匂いが、艶めかしく、八五郎の頬を撫でます。 「甚助野郎は鎮まったのか」 「ええ、どうやら」 「それじゃ話してくれ、お前の用事、そうそう素姓から始めるはずだった」 「待って」  娘は不安そうに身体を曲げて、柳屋の方を透しておりましたが、 「どうしたんだ」 「シッ、静かに」  柔かい暖かい掌が、八五郎の唇を押えるのです。先刻と違って、家の中に何かあったのか、ひどく神経質になっている様子です。  二人は黙って、井戸端の柳に凭《もた》れておりました。柳屋の中は、すっかり鎮まった様子ですが、娘は何に脅えたか、八五郎から誘っても、容易に口を開こうとはせず、その間に、不安な時が経って行きます。  若い娘——馥郁《ふくいく》たる若い娘の手を取ったまま、井戸端の柳に凭れて、ジッとしているのは、八五郎に取っては、まったくの新しい経験で、夜はこのまま、三日くらい続いたところで、大した退屈も感じなかったことでしょう。 「ね、お琴」  ややしばらく経って、八五郎は恐る恐る声を掛けました。握った手は思いのほか温かく少し汗ばんで、小刻みに顫《ふる》えているのを、八五郎は意識したのです。 「いったいこれは、どうしたことだ」 「黙って、私は怖い」  漆《うるし》の闇で、顔の表情はわかりませんが、お琴は容易ならぬ恐怖に襲われて居るのでしょう。  そのとき不意に、——それは全くの不意でした。柳屋の家から恐ろしい悲鳴が聞えて、人が八方に飛出しました。 「なんかあったのかな」 「行って見ましょう」  そう言う間もなく、お琴は八五郎の手を振り切って、柳屋の中に駈け込んでしまいます。 「早く医者を」  何様《なにさま》ただならぬ様子で、人々は右往左往しております。  何が何やら、わけのわからぬままに、お琴の後から柳屋の暖簾をくぐると、 「八五郎親分、大変なことが、——ちょうどいいところよ、見て下さいな」  もういちど飛出して来たお琴、八五郎の手をひいて、柳屋の店の中に飛込むのです。 「何が始まったんだ」 「大野田の金之助様が」 「どうした」 「突き殺されて」 「何?」  それはまったく大変なことでした。飯田町三丁目に住んでいる、三百五十石の旗本、大野田仁左衛門の倅金之助が、場所もあろうに、中坂下の小料理屋、柳屋の奥の一と間で、首筋を刺されて死んでいたのです。     四  八五郎の話はこんなものでした。明神下の平次の家へ行ったのは、その翌る日の朝、一と通り説明すると、重荷をおろしたように、ホッとして煙草盆を引寄せるのです。 「それからどうしたんだ、話はそれっ切りか」 「まだありますよ、金之助は左の首筋を深くえぐられ、——お琴、お琴——と言いながら、間もなく息を引取ってしまいました、当のお琴は、中坂下の井戸端で、私と逢引の最中、と言ったところで、ツイ今しがたまで、手を取合っていたんだから、金之助を殺すはずはありません。死に際《ぎわ》の妄想で、惚れた女の名を呼んだことでしょう」 「で?」 「それからは大変な騒ぎでしたよ、何しろ柳屋の奥の一と間——四畳半は血の海だ、さっそく大野田家へ知らせると、主人の仁左衛門が用人の禿げ頭と飛んで来ましたが、たった一人の倅金之助が殺されて居るのに、涙一つこぼさず、言うことがいい」 「……」 「これが表沙汰になると、大野田の家名に拘《かか》わる、仏は暗いうちに引取るから、何事も穏便に済ましてくれるように——と倅の敵を討つことなどは考えても居ません、侍なんてものは、不人情なものですね」 「ありそうなことだな」 「柳屋には、後の掃除料ということで、いくらか包んだようですが、柳屋の主人勘六のニコニコした顔をみると、いずれ纏《まと》まった額でしょうが、二三日商売を休んで、畳でも換えたら、また商売を始めるんだと言っていましたよ。何しろあの辺は人の悪いので有名な御家人町だが、中間小者が多いから、飲屋が大繁昌でいつまでも休んでいるわけには行かないでしょうよ、それに柳屋はお琴とお糸の二人の娘を看板に、大した勢いですからね」  八五郎は今さら持て余して、親分の平次を誘うのでした。事件が面白くて、骨折り甲斐があるとわかれば、損得に構わず、乗出さずには居られない、平次の探求本能を心得ていたのです。 「だが、そいつは、俺が乗り出すまでもあるまいよ、相手が三百五十石の武家じゃ、暴き立てたところで後がうるさい、お琴とか言う娘に、古文真宝《こぶんしんぽう》な色文を貰った因縁で、お前が一手に引受けて調べて見ちゃどうだ」 「やっても構いませんかね」 「言うまでもないが、見当は、お琴がお前に用事があって呼出したに違いあるまいから、改めてその用事を聴き出すんだ」 「ヘエ?」 「それから、お糸という妹の方の娘は、この時どこに居たのか?」 「そいつはわかって居ますよ」 「感心に気が付いたね」 「お糸は可哀想に寝たっ切りですよ、物置のような裏二階で、——たった十九になったばかりで、姉のお琴よりもきりょう良しですが、癆症《ろうしょう》の気味で三月も起きません」 「それは気の毒だな」 「毎日夕方から熱が出るんだそうで、あっしもちょいと逢いましたが、青白くて、お人形のような綺麗な娘ですよ」  八五郎はこのお糸にも精いっぱいの好意を寄せている様子です。 「それから、外に、柳屋の家の者は?」 「喜三郎という若い男が居ますよ、使い走りから出前持、用心棒にもなるわけで」 「年の頃は?」 「二十五六でしょうか、ちょいと良い男で」 「?」 「柳屋の女房はお米という三十七八、色っぽい大年増ですが、口がうるさそうで」 「それっ切りか」 「柳屋の主人の勘六だって、脂切った親父ですよ、お糸が病気で手が足りないから。女房のお米を客の相手に出すと、その後で焼餅喧嘩が大変なんだそうで、近所でもそれが評判ですよ。何しろ亭主の勘六は板前もやっているから、ときどきは商売道具の出刃庖丁を振り廻したり——」 「ゆうべ、大野田の倅を殺した刃物はなんだ」 「殺された金之助本人の脇差ですよ、それを首筋へ打ち込んで死んでいたんだから、間違いありません」 「鞘は?」 「傍《そば》に転がって居ました」 「そんな事なら、下手人は直ぐわかるだろう、もういちど行って調べて見るがよい」 「ヘエ」 「お琴お糸姉妹の素姓を調べるのだ、それから、大野田の家を怨むものはないか?」 「?」 「殺された金之助の身持」 「それはもう滅茶滅茶で、二本差の子のくせに、あんなタチの悪いのはありません、女を騙す、博打は打つ、押借り、ゆすりくらいやり兼ねない男で」 「腕は?」 「大なまくら、威張り散らすだけで、いざとなったら、なんの役にも立たなかったでしょうよ」  徳川の直参《じきさん》も太平に慣れて、そんな心細い武士がしだいに殖えて行くのを防ぎようもありません。 「親は、黙ってそれを見ていたのか」 「一人息子で、甘やかし放題、昔は堺《さかい》御奉行の与力で、ずいぶん鳴らした大野田仁左衛門ですが、この節は無役で、裕福に暮らしていますよ」 「それだけわかっておれば、大したものだ、もう一と息、押してみるがいい、大野田の家を潰《つぶ》しても仕様があるまいが、調べるところまでは調べておきたい」  銭形平次の本能が、このままでは済みそうもありません。 「そうでしょうが」 「もう一つ、大野田家は金之助が一人息子だと言ったね」 「そうなんで」 「金之助は病死のお届でも済むが、すぐ跡取りを立てなければなるまい、それがどうなるか気をつけることだ。ともかく、俺は構わないから、そのお琴とか言う娘と相談して、お前一人で調べてみるがいい」 「やってみましょうか」  お琴を相棒にと言われると、八五郎は急に威勢がよくなります。     五  八五郎はもういちど飯田町に引返しました。平次にそう言われてみると、大野田家と柳屋が、この事件を表沙汰にすることを好んでも好まなくても、岡っ引の建前として、トコトンまで調べ抜いて、下手人の顔を見てやりたい心持で一パイだったのです。 「おや、八五郎親分、なんかまた御用で?」  柳屋の主人勘六は、はなはだ面白からぬ顔をするのです。 「心得のために、いちおう調べておきたいのさ、お目付衆の耳に入れるわけじゃない」 「ヘエ、どうぞ御自由に」  そう言う勘六を尻目に、八五郎はお勝手口から入り込みました。  金之助の死体は、夜の明けぬうちに、吊り台で三丁目の大野田家に移しましたが、したたかに血を呑んだ畳は、急に処分するわけにも行かず、そのままにして、次の夜の来るのを持っております。 「ま、八五郎親分、お待ち申しておりました、今日はもう、ただではお帰ししませんよ、昨夜のお礼も申上げなきゃ」  あの悩ましき女房のお米が、奥の一と間に案内して、ポンポンと手を拍《たた》くのです。  三十七八の大年増、盛りこぼれそうな色気を発散して、あらゆる男性を引き寄せようという作為は、本人はどう考えて居ようと、はたから見ると、相当以上に扱い憎いものです。 「お呼びで?」  そっと唐紙を開けて、顔だけ見せたのは、姉娘のお琴でした。襟の掛った地味な袷《あわせ》、白粉っ気無しの、健康そうな白い肌、少し公卿眉《くげまゆ》で、受け口で、女将《おかみ》に知れないよう、そっと挨拶を送ると、まことに非凡の媚《こび》です。 「なんか見つくろって、一本つけて来ておくれ、それからしばらくここへは誰も入れないように」  行届き過ぎるほどの指図です。  それからざっと小半刻《こはんとき》、ホロ苦い酒を呑まされながら、八五郎はさんざん口説かれました。町方の耳に入っては、もうどうにも仕様がないが、表沙汰になれば、お上の評判のよくない大野田家は、取潰しになるにきまって居る、倅一つの命にも代えられないから、この一件はぜひ内証にしてくれというのです。 「すると大野田の旦那は、金之助さんの敵を討つ気はないのか」 「いえ、親ですもの、大野田の殿様も、若旦那様の敵を打ってやりたいのは山々ですが、それよりは三百五十石のお家が大事で——」  お米までが、お家大事の思想にかぶれて、八五郎の口を塞ぐことに必死です。  なおも突っ込んで訊くと、大野田仁左衛門は、堺奉行の与力として、なかなかの腕利きと噂され、異人の取引にも、いろいろ手柄を立てましたが、抜け荷のことから妙な噂が立ち、御役御免になって江戸に帰り、そのまま五年、七年、裕福で安穏な日が経ったというのでした。 「殺しがあったに違いないから、相手は何様であろうと、調べるだけは調べ、いちおう八丁堀の旦那方へ、お知らせしなきゃならないのさ、それから先のことは、こちとらは知るものか悪く思わないでくれ」 「……」  八五郎にそう言い切られると女将のお米も、取付くしまもありません。 「ところで、金之助様はこの店に毎晩来たのか」 「毎晩という程でもありませんが」 「まア、毎晩みてえなものだろう、その目的は、お琴か、お糸か」 「お糸はあのとおりの病人ですから」 「ところで、そのお琴の方は」 「あの娘《こ》は強情で、お酒の相手しかしてくれません」 「ヘッ、頼もしいところがあるね」  八五郎はツイ思ったことを言ってしまいました。 「頼もしいもんですが、三百五十石のお旗本の惣領をフリ飛ばすなんて」 「ところで、そのお琴はどこの娘なんだ」 「生れは上方《かみがた》だと聴きましたが」 「請人《うけにん》があるだろう」 「それが、ね、あの」  こういった曖昧茶屋《あいまいじゃや》などは、確とした請人も証文もなく、気軽に安値に人身売買が行われたのでしょう。     六 「お前は、喜三郎じゃないか」  女将の部屋を出た八五郎は、チョロチョロと庭を抜ける、気のきいた小男に声を掛けました。  二十五六の、いかにもキビキビした男前です。 「なんか御用で」 「なんか御用じゃないよ、俺と女将の話を聞いてたんだろう」 「そんなわけじゃございません、ちょいとその薪を取りに」 「薪はお座敷にあるわけは無え、まアいいや、聞かれて悪い内証事を話して居たわけじゃないから」 「ヘエ」 「ところで、お前は、お琴に夢中だってね、隠すな、証人は二三十人もある」 「御冗談で親分、あっしの方で夢中だったところで、お琴さんは気位が高いから相手にもしてくれませんよ」 「お琴さんに気があると、お前はツイ大野田の金之助さんを憎いと思ったことだろうな」 「とんでもない、あの方はお武家で、こちとらとは身分が違います」  武家の子と町人の子——それも出前持の若い男が、鞘当《さやあて》の出来る世の中ではありません。 「おや、あれは?」  八五郎はフト二階を見上げました。中庭を隔てた二階の障子が開いて、お琴はひらりとそこへ入って行くのです。 「あれは?」 「お糸さんの部屋ですよ、——あの人は妹思いだから、一日に何度となく行ってやります」 「そうか」  八五郎は喜三郎に背を向けると、お琴の入った二階へ訪ねて行きました。 「御免よ」 「……」  それは北向きの寒そうな部屋で、病間というよりは、納戸に畳を敷いたようなところでした。 「開けてもいいか」 「待って下さい、——八五郎親分でしょう」  お琴の声は、弾み切っておりました。 「見せたくないと言うのか」 「いえ、若い女の病間、むさ苦しいところを、殿方には」 「ウ、フ、殿方と来たか、心配するな、こちとらは、そんな事に驚きはしない」 「ではどうそ」 「御免よ」  一と思いに障子を開けると、プンと薬の籠《こも》った臭い、中に寝ているのは、十八九の若い娘ですが、姉に助けられて起き直ると、それでも床の上に坐ってお行儀よくお辞儀をするのです。  若い顔、ポーッと頬を染めた、消耗性の熱、濃い眉、やや下脹《しもぶく》れで、それは清らかな美しい娘でした。こんな娘を、こんな境遇に陥し込んだ、貧苦か逆境か、ともかく容易ならぬ物の間違いに、八五郎はフト暗い気持になります。 「ゆうべはお世話になりました」 「お世話?」  八五郎はお琴の言葉をフト聞きとがめました。あの一刻ほどの逢引、なんの意味があったわけでないにしても、八五郎はお礼を言われる筋合ではなかったのです。 「あんなことで、申し上げることも申し上げずにしまいました」 「それじゃまた、井戸端で」  八五郎はあんな逢引なら、幾度でもやってみたいような心持です。 「いえ、もうたくさん、でも、八五郎親分にはいろいろ申上げたいことがあります、もういちど」 「もういちど」 「今晩、この家へ」  お琴は眼顔《めがお》にものを言わせて、八五郎に呑込ませるのです。 「それにしても、不思議でたまらねえのが、お前達二人の素姓だ。今まではただの茶屋女と思っていたが、今日は急に改まって、言葉から物腰まで、ただの娘じゃねえ」  八五郎にもそれはよくわかりました。 「それもいずれ、今晩はわかります」 「それが本当なら、きっと来るよ」 「庭から入って、石灯籠《いしどうろう》を足場に、二階へ——あとは心得ておりますから」  お琴はなおもささやくのです。 「ところで、お糸の病気はどうだ、顔色が良くねえようだが」 「大したこともございません」  ニッコリ笑って肩を落すと、髪だけはたしなみよくあげて、細い首筋が重そうなのもあわれでした。 「それじゃ大事にしねえ」  八五郎は妙に心ひかれながら、二人の姉妹を後にしました。梯子段の下には女将のお米が、二階の話を気にして眼を光らせております。     七  その晩八五郎は、お琴に教わったとおり、柳屋の庭木戸を押して、石打籠を踏み台に、二階の欄干《てすり》をまたぎました。  幸い柳屋はまだ商売を休んでいるので、誰も見とがめる者はありません。 「……」  そっと手を握るものがあります、柔かいが冷たい手です、驚いて声を立てようとすると、 「お願いですから、八五郎親分、どんなことがあっても、声を立てないで下さい、黙って聴いて居て下されば、おしまいには、何もかもわかることですから」  それは聞き覚えのあるお琴の声です。頬を撫でる香わしい娘の息を感じて、八五郎は闇の中でコックリコックリうなずきます。 「さア、こっちへ」  導かれたのは、梯子の上の、狭い納戸でした。つまり二階の納戸を二つに仕切って、大きい方はお糸の病室に当て、小さい方は納戸のまま、ガラクタを詰めてあるのでしょう。  そのガラクタの中に、八五郎はわずかの隙間を見付けてしゃがみました。と間もなく二階に灯《ひ》が入って、下には少し権柄《けんぺい》ずくの人声、それは、昨夜《ゆうべ》もここへ訪ねて来た、旗本大野田仁左衛門がたった一人、 「お琴、お糸という、二人の姉妹に逢いたい、明日までは待たれぬ急用だ」  精いっぱい殺したダミ声が、二階の八五郎の耳にはよく響くのです。 「いや、——二階に居るなら、それでよい、案内には及ばぬ」  先に立った内儀のお米を、梯子段の下から追い帰して、大野田仁左衛門がたった一人、二階にやって来ました。なんとなく、憤々《ぷんぷん》とした足取りです。 「入らっしゃいませ」  それを迎えたらしい、お琴の声です。 「お前一人か」 「妹は容態が悪くてお目にかかれません、お詫びを申上げます」 「何、お前達姉妹は、何をこの私に言いたいのだ」 「お怨みを申し上げたいと存じます」 「何?」  間髪を容れぬお琴の言葉に、大野田仁左衛門はハッとした様子です。 「お聴き下さい、大野田様」 「いや聴かぬ、今晩、ここへ来てお琴お糸二人の姉妹に違えば、倅金之助を害《あや》めた下手人を教えてやるという手紙があったから参ったのじゃ」 「まだ外にも、文句があったはずでございます」 「万一、拙者がこの家へ来なければ、倅金之助、人手に掛って殺された一埒を、御目付衆に訴える——と」 「それはもう、竜《たつ》の口《くち》へ訴状として差出しました」  お琴の言葉は、冷たくキビキビしております。 「何? 竜の口へ、——それは本当か、なんの怨みで、大野田家へ、そのような」  大野田仁左衛門、ひどくあわてた様子です。 「お心付きはございませんか、私と妹は、泉州《せんしゅう》堺の住人、祝円之丞《いわいえんのじょう》の娘——」 「な、なんと」 「母はお梶《かじ》と申しました。七年前、其方堺御奉行与力を相勤め、母上に無体《むたい》の恋慕《れんぼ》、父上を抜け荷扱いの罪に陥し入れ、祝家の身上《しんしょう》をことごとく奪い取った上、父上を獄死させ、母上を手に掛けた極悪非道の振舞」 「何、何を証拠に、左様なことを」  あまりの不意の訊断《じんだん》に、大野田仁左衛門はさすがにまた胆をつぶしたらしくあしらい兼ねてしどろもどろです。 「証拠は山ほどある。このたび国元から老僕周吉と申す者が参り、七年にわたる探索で、其方の非曲の種々《くさぐさ》を調べ上げ、証拠の種々をその手文庫に入れてある、御上に差し上ぐる前、見たくば後で見るがよい」 「己れ、とんでもない言い掛りを申す奴、その分には差しおかぬぞ」 「昨夜、其方の倅金之助を殺したのも、天罰と気がつかぬか」 「えッ、まだ」 「おッ、言うとも、祝円之丞の娘、琴と糸、今こそ思い知ったか」 「えッ、勘弁ならぬ女奴」  大野田は一刀抜いて切ってかかった様子、八五郎思わず飛出そうとしましたが、お琴は早くも身を逃れて、廊下から梯子段へ、一足飛びに逃げてしまいました。  それを追う様子もないのは、大野田仁左衛門、押入に残された、手文庫に気がついたのでしょう。その中からハミ出して居るのは、まさしく古い手紙、覗くと紛れもない、それは自分の筆蹟なのです。 「……」  大野田仁左衛門、押入の中に半身を入れると、思わず棚の上の手文庫に手を延ばしました。 「アッ」  どこに仕掛けがあったかわかりません、押入の床がスポリと抜けて、大野田仁左衛門、一とたまりも無く下へ落ちてしまったのです。     八  それは実に惨憺たる有様でした。二階押入の床が抜けて、階下へ落ちた大野田仁左衛門は、どんな弾みだったか、自分の手に持った自刃に、自分の首を貫かれて、しばらくはノタ打ちまわりましたが、まもなく息が絶えてしまったのです。もはや医者にも薬にも及びません。  その騒ぎの中に、二階から飛び降りた八五郎は、天から降ったもののように、柳屋の者を驚かしましたが、ともかく、岡っ引が一人、この騒ぎを見届けてくれたことは、柳屋に取っては、勿怪《もっけ》の幸いといった有様でした。  騒ぎの中に、お琴とお糸の姉妹が、いつの間にやら姿を隠したことに気がつきましたが、大野田仁左衛門は、明らかに二階の押入から落ちて、自分の刀で、自分の首を突いたことは、八五郎がこの耳で聴きこの眼で見て知っているので、今さら誰を下手人に挙げることもならず、お届けだけを済ませて、事件はそのまま、うやむやになってしまいました。  いちおうの手続きが済んで、明神下の平次の家へ行った八五郎は、それからの顛末を、事こまかに話して、 「あっしには腑に落ちないことばかりですよ。大野田の倅金之助を殺したのも見当が付かないのに、親仁《おやじ》の大野田仁左衛門だって間違って二階から落ちて、自分の刀を自分の首へ突立てて死んだとも思われません」  八五郎は狐につままれたような顔をするのです。 「お前がお目出度いからだよ、女でなきゃ、そのお琴という娘を、岡っ引にしたいくらいのものだ」 「ヘエ」  平次は面白そうに笑うのです。 「でも、それで良かったのさ、なまじっか目がきくと、とんだ罪を作るところよ」 「?」 「いいか、八、中坂下の井戸端で琴と逢引したとき」 「逢引というほどのものじゃありませんがね」 「まア、遠慮することは無い、逢引にしておけよ、——ずいぶん真っ暗で。なんにも見えなかったと言ったね」 「生憎《あいにく》月は無いし、あの辺はまた灯がないからやけに暗い」 「お互いの顔も見えなかったことだろうな」 「鼻をつままれてもわかりませんでしたよ」 「そこで、お琴はいちど柳屋へ帰って、また戻って来たと言ったね」 「ヘエ」 「さいしょ洗い髪でお前の頬へさわる毛がサラサラしていたと言つたろう」 「そのとおりで」 「後では——二度目に戻って来たときは、伽羅の油の匂いがしたと言ったはずだ」 「ヘエ」 「さいしょは手が冷たったはずだが、二度目に手を握り合ったときは、手が温かで、顫えていたと言ったろう」 「……」 「始めはよくしゃべったが、二度目からは物を言わなくなったはずだ」 「すると?」 「人が代ったのだよ、さいしょに出て来て、お前と話したのは、姉のお琴で、二度目に出て来て、黙って手を握ったのは、妹のお糸だ、——丈夫な者は手が冷たいが、夕方から熱の出るような弱い娘は、手が温かいのも無理はない」 「すると」 「金之助を殺したのは、姉娘のお琴だ。お前を呼出して、証人に立てるつもりでやった細工さ、妹と入れ代って室へ戻り、金之助の脇差を抜いて、しなだれ掛かると見せて、後から手を廻して喉をえぐったのだ」 「あ、なるほど、太てえ阿魔で」 「驚くな、二度目にお前を二階の納戸に生証人に入れておいて、押入の床を抜いて、文庫に釣られて潜り込んだ大野田仁左衛門を下へ落した」 「でも」 「下にはたぶん、お琴が待っていたことだろう、二階から落ちて気の遠くなった仁左衛門の手から白刃を奪《と》りあげて、首へ突っ込んだだけのことさ、恐ろしく気のつく女だ」 「でも、二階の押入には、仕掛がありましたよ、床板を鋸で引っ切って、人間が乗れば落ちるように、軽く留めてありましたが、あれは女の子の細工じゃありませんよ」 「出前持の喜三郎の細工だろうよ、その証拠には、喜三郎も姿を隠したはずだ」 「あッ、そのとおりで」  銭形平次の明智は、掌を指すよう、まさに八五郎一言もありません。 「で、あの二人姉妹はどこへ行ったでしょう」 「だぶん故郷の堺にでも帰ったことだろうよ。放っておけ」 「残り惜しいような気がしますよ」  八五郎も裏淋《うらさび》しそうでした。あの晩の井戸端の逢引を思い出したのでしょう。  雪丸の母     一 「親分は、八五郎さんだね」  後ろから声を掛けられて、八五郎はハッと振り返りました。もう陽は高くなって、江戸の町は昼近い営みに忙しい時分なのに、昨夜不意の御用で——それは伯母さんの手前を繕《つくろ》った大うそ、友達と呑み呆《ほう》けて遅く帰った八五郎は、いま時分になってようやく起き出して、生意気に猿屋《さるや》の楊枝《ようじ》なんか咥《くわ》えたまま、向柳原の路地いっぱいに展開する子供達の遊びを眺めているのでした。  凧《たこ》にも羽根にも遅いが、子供らの遊びの年中行事には息抜きも隙間もありません。女の子は綾取《あやと》り、鞠《まり》つき、空地には飯事《ままごと》の店を開いて、男の子は、角力、鬼ごっこ、飽きると、危険な遊びとして、ときどき禁制の御達しがあるにも拘わらず、堅木《かたぎ》の杭や船釘などを持出して、路地の土の柔かいところに打ち込む、根《ね》っ木《き》遊びに夢中になっているのです。  その中から脱け出したとも思えない、色白の大柄な男の子が一人、八五郎の後ろから声を掛けたのでしょう。 「俺は八五郎さんだよ。なんだえ、用事は?」  八五郎はまことに良い気のものでした。 「ヘッ、自分へさんを付けてやがらあ。世話ねえや」  少年はピリッとしたことを言って、——そのくせ好意に満ちた笑顔を振り仰ぎました。ニッコリすると、えくぼが綻《ほころ》んで、非凡の可愛らしさです。 「こいつは一本参ったな。お前はこの辺で見掛けねえ顔だが、どこから来たんだ」  八五郎は素直に謝まりました。こう言った態度が土地の子供達の人気を集める原因でもあったのでしょう。長《な》んがい顎を一つ振りさえすれば、なんにも言わなくとも、子供の大軍が集まって来る八五郎だったのです。 「おいらはずっと遠いよ」 「まさか、阿波の徳島じゃあるめえ。何しにこんなところへ来たんだ」  八五郎の酒落——口説き浄瑠璃の文句は件《くだん》の少年にはわかりませんが、それでも、八五郎がいたわる気持だけは通じたらしく、急にうなだれると、八五郎がなんにも言わないのに、シクシクと泣き出してしまったのです。 「……」  その涙を二つ三つかなぐるように拭くと、眼の下に隈《くま》が入って、せっかくの可愛らしさが台無しになります。 「いきなり泣き出しちゃ、わからねえ。誰か意地悪でもしたのか——なに、そうじゃねえ。この土地の児に、そんないじめっ児は居ねえはずだ。いったいどうしたというのだ」  八五郎は少年の前に屈むと、肩に掛けた手拭で、涙に濡れた顔を拭いてやるのでした。 「おいらは八五郎親分に逢いに来たんだ。逢って頼みたいことがあるんだよ。向柳原へ行って、八五郎親分に頼んで見ろ、決して嫌だなんて言やしない。顎が長いからすぐわかる。——そう言って教えてくれた人があるんだよ」 「からかわれているようだな。まアいいや、こっちへ来ねえ、俺は井戸端で顔を洗って、腹ごしらえしながら、お前の話を聴くことにするから」  八五郎は少年を案内して、伯母の家の庭先——と言っても猫の額ほどのところに入れ、濡れ縁に掛けさせて、手っ取り早く顔を洗いました。 「親分は智恵があるんだってね」  少年は八五郎の支度をする間ももどかしく、独り言のように言うのです。 「たいしたことはないよ、それがどうしたんだ」  八五郎は手頃な合槌を打ちました。 「銭形の親分ほどは利巧じゃないんだってね」 「そりゃお前、親分と子分だもの。銭形の親分は、ありゃ神様の次だよ。天地見通しだ」 「怖いんだね」  少年は身を縮めました。十三四の少年の耳には、銭形平次の名は鬼神《きしん》のごとく言い伝えられているのでしよう。  顔は童人形《わらべにんぎょう》のように無邪気で、女の児のような愛嬌がありますが、柄《がら》はなかなか大きく、筋骨も少年らしくない逞《たくま》しさがあります。 「ところで、まだ、お前の名を聴かなかったが、なんと言うんだ」  八五郎は朝の膳を押しやると、少年の方を向き直りました。お勝手の方では八五郎の伯母が、何やらコトコトと仕事をしております。 「深川の冬木町から来たのさ。おいらの名は、雪丸てんだ」 「雪丸、——ヘエ、お公卿《くげ》様のような名じゃないか」 「代々の通り名だよ。親は宝来右京太夫《ほうらいうきょうだゆう》雪丸と言ったんだ」 「ああ、それじゃお前、冬木町の、あの家の子か」  八五郎は思い当りました。神田と深川では縄張りが違い過ぎて、その事件は噂に聴いただけですが、今からざっと十日ばかり前、冬木町の金貸し殺しとして、それは江戸中の評判になった不思議な事件だったのです。 「宝来の家の者には違いないが、殺されたのはおいらの叔父に当る金三郎という人さ。縛られたのは、おっ母さんなんだよ」 「お前の母親が縛られたというのか」 「だから、八五郎親分を見込んで頼みに来たんだ。銭形の親分は怖いから、八五郎親分なら手頃だろうと」 「馬鹿にしちゃいけねえ」 「でも、八五郎親分は、親切なんだってね、人間は少し甘いけれど」 「誰がそんな事を言った」 「皆んながそう言うぜ」  まったく角力になりません。  が、ともかく八五郎は、冬木町まで行ってみる気になりました。縄張り違いのうえ、神田と深川では親分の平次の顔に拘わるはずもないのですから、こっそり出かけて行って、一と手柄をしてみようという、柄にもない謀事《はかりごと》を起したのも無理のないことでした。     二  いちおう深川冬木町まで出向いた八五郎は、たった半日で持て余して、その晩遅くなってから明神下の銭形平次の家へやって来ました。せっかく心掛けた手柄はフイになりますが、その辺はまことに安直な八五郎です。 「親分、いやもう、抜け駆けの功名なんてものは、心掛けるものじゃありませんね」  こう、ヌケヌケと長んがい顔を押し拭う八五郎を、平次は喜んで迎えるのでした。 「八か、ちょうどいい。今日は遅く帰って、今ひと風呂浴びたばかりよ。これから一本つけさせようか、それとも飯にしようか、と考えていたところよ。お前でもお客様に違いないから、大威張りで——なアおい」  平次は隣の部屋へ顎をしゃくるのです。 「ヘエ、有難い仕合せみたいで。親分のせりふじゃねえが、これでも確かにお客様で」 「嫌味を言うな。ところで、抜け駆けとはなんだ。なんでも、昼近くまで寝ていたお前が、十三四の可愛らしい男の子に誘われて、深川の方へ行ったということだが、百も持っちゃいないはずだから、たいした間違いは仕出かすまいとは思うが——」 「ヘェ、驚きましたね、どこでそんな事を?」 「伯母さんが来て、お勝手でお静と話していたよ」 「なんだつまらねえ。あっしはまた親分が八卦《はっけ》を置くのかと思いましたよ」 「馬鹿だなア、どんな混み入ったことでも、念入りに調べると、不思議に当るものだよ。——もっともお前の懐ろに百文もないことは、八卦にも易《えき》にも及ぶものか」 「叶わねえな。ところで、八卦ついでに当てて下さいよ。あっしは半日どこで暮したと思います?」 「お詣りや御馳走じゃあるめえ。深川と言えば先ず、冬木町の宝来——」 「当った、当りましたよ。あの金貸しの宝来金三郎殺しを調べて来ましたがね」 「そこで、抜け駆けの功名に、下手人でも縛ったというのか。二三日前木場の留吉親分が、下手人を挙げたと聴いたが」 「それが大違いなんで」  八五郎の話はこうでした。  宝来というのは、西国大名お抱えの能役者の裔《すえ》ですが、先代の右京は蓄財に巧みで、一代に巨万の富を積み、一時は深川の長者として栄えましたが、先年旧主関係にむずかしい事件が起り、一夜自害して相果て、その後を襲って義弟の金三郎が、宝来の産を再興し、今日に及びました。ところが、先代の右京が死んで三年目に、当主の金三郎が、自分の部屋の真中に、仰向けざまに寝たまま、喉笛を柄《え》のない槍の穂先で縫われて死んでいたのです。  槍は宝来家に伝わる名槍で、祖先の某が藩主から頂いたという品、笹穂《ささほ》は短かくふくよかに、鋭さのうちにも豊かな匂いのあるもの、中子《なかご》は二尺に近く、手槍には違いありませんが、申し分なく見事なものでした。  それを鞘に入れたまま、主人の隣の部屋の押入に入れて置いたのを、誰が持出したか、隣の部屋まで持って行き、泥酔したまま、仰向いて寝ている主人の喉笛に突っ立て、六畳いっぱいを血の海にしているのを、主人金三郎の娘のお高が見付けたのです。 「それは夜中か、宵のうちか」  平次は口を挟みました。 「今から十日前の、まだ宵のうちだったそうで。主人の金三郎は少し酒癖が悪いので、家の者もあまり寄り付かず、先代の主人右京の後家のお時がいやいやながら相手をしていたが、いいあんばいに眠ったので、そっと脱け出して、お勝手にいる下女のお光に断って、自分が当てがわれている、離屋《はなれ》に帰ったのだ——ということで」 「それから死骸になっているのを、娘が見付けるまで、時が経っているのか」 「直ぐだったそうで。右京の後家のお時が、下手人の疑いを受けるのも無理はありません」 「お前までが、そんな事を考えているのか」 「雪丸という変な小僧が、神田まであっしを訪ねて来たのは、母親を助けたさの一心でしたが、行って見ると、木場の留吉親分が、お時を縛ったのも無理はないと思いました」 「金三郎が殺されて十日も経つというじゃないか。それから六日も七日も、そんなに怪しいお時とやらを放って置いたのはどういうわけだ」 「倅の雪丸は、そのとき母親と一緒に離屋にいたに違いなく、金三郎が、うめき声を立てたのを、自分も聴いているし、下女のお光も、内儀《ないぎ》が離屋へ戻ってから、しばらく経って聴いたに違いないと言ってるんで」 「なるほどね」 「それに、金三郎の傷は、喉笛を下へ突き抜けるほどえぐったもので、非力な女や子供が、槍の穂で突いたところで、あんな凄い手際の殺しは出来るものでないと、これは現に現場を見た木場の留吉親分もそう言っております」 「曲者は外から入った様子はないのか」 「金貸しなんてものは、あんなにまでも用心深いものでしょうか。まるで、桟《さん》と輪鍵《わかぎ》と心張《しんば》りと錠前で、鉄の箱みたいな家ですよ。店を閉めてしまえば、お勝手に頑張っている下女の眼を免れては、曲者の入る場所も出る場所もありゃしません」 「なるほど、こいつは面白そうだな。こいつはお前の手柄にはむずかしいかも知れないよ」 「だから、ちょいと覗いて下さいな、親分」 「嫌だよ」 「ヘエ」 「喰い残しの御馳走みたいなものさ。人のさんざん手掛けたものは、もう手を出したくないよ」 「そう言わずに親分」 「ま、相談相手にだけはなってやろう。深川まで近くはねえが、毎日通って、精いっぱい調べて来ると良い。一々相談には乗ってやる」 「ヘエ」 「抜け駆けの手柄にしようと思ったお前だ、精いっぱいやってみるが良い」  平次はいつにもなく突っ放しました。薄情なようですが、実は八五郎にせっかくの事件だから、せめては手柄を立てさせたかったのでしょう。     三  翌日は一日、八五郎は深川で調べ抜いて、夜になるとまた、重い足を引摺って明神下へやって来ました。 「ま、八さん、疲れたでしょう。今晩は飛びきりのを用意してありますから、お燗のつくまで、ひと風呂入って来て下さいな」  銭形平次の女房のお静は、いつでも親切で気の付く女でした。八五郎の顔を見るともう、いそいそと襷《たすき》を取り出す処置振りです。 「ヘッ、ヘッ、そんな事だろうと思って、もう町内の桜湯でひとっ風呂流して来ましたよ。ところで、親分は?」 「まア」  たじろぐお静の後ろから、 「八、少しは見当が付いたのか。うるさい男だな」  そう言いながら平次は、実は待ち構えて居たらしい顔を出すのです。 「見当なんか付きませんよ。ますますわからなくなるばかりで」 「頼りない野郎だな」 「でも、いろいろのことがわかりましたよ。宝来の主人の——殺された金三郎というのは、悪い野郎で、——あっしが、近所中の噂をかき集めると、褒める者は一人もありません。ケチで、剛情で、欲張りで、助平で」 「八五郎とあべこべだ」 「からかっちゃいけません。先代の宝来右京の自殺した時も、変な噂が立ちましたが、右京が死ぬと後家のお時と倅の雪丸を離屋に押し籠め、宝来の家をヌケヌケと横領して、自分が主人になったそうで、——もっとも内儀のお時は、右京とは慣れ合いの夫婦で、仲人も証人も立っていないから、文句の持込みようもないんですって。呆《あき》れ返るじゃありませんか、仲人を立てないのが悪かった日にゃ、こちとらの女房は皆んな慣れ合いだ。そう言っちゃ済まねえが、親分とお静|姐《ねえ》さんだって、綿帽子を冠《かぶ》って島台《しまだい》を飾ってよ、高砂やアと謳《うた》い納めた仲じゃないでしょう」 「馬鹿野郎、なんて事を言やがる。御近所の衆だって聴いているじゃないか」 「ヘッ、ヘッ、それでも、親分は横領される程のお宝がないから、お静姐さんも安心だが」 「まア、いい、それがどうした」 「その泥棒野郎の金三郎が、先代の右京の後家の、お時にちょっかいを出して、間《ま》がな隙《すき》がな口説き立てるとしたらどんなもので」 「お時は幾つだ」 「三十五だそうで、番屋で逢って来ましたが、良い女でしたよ。眉の跡の青々とした、眼の大きい下っ膨れで、鉄漿《おはぐろ》を黒々とつけてはおりますが、番屋に泊められて、科人《とがにん》扱いを受けながらも、少しも身だしなみに崩れはありません」 「お前に逢ってなんと言った」 「——金三郎を害《あや》めたのはこの私に違いございません。生きる望みもない身体でございます。早く口書きとやらを取って、お白洲《しらす》に御引立て下さいますように——とこうです。こんな事を言う悪人はあるものでしょうか、親分」 「困ったことだな。死骸の傷の様子、後さきの人の動きなどから、下手人はお時でないとすると、その女は、誰かを庇《かば》っているに違いあるまい。宝来の家には、いったいどんな人間がいるんだ」 「先ず、殺された主人金三郎の一人娘でお高。十九の厄《やく》だが、ちょいと好い娘で」 「それから?」 「番頭の佐多吉、三十七、八の働き盛りだが、狐を馬に乗っけたような男。遊びもつまみ食いも心得て居そうで」 「あとは?」 「養子の浪太郎、悪い男前じゃないが、陰気で無愛想で、主人の金三郎とも折合いが悪かったそうですよ。主人が生きていれば、祝言前に追い出されたかも知れません。二年越しお預けを食わされの婿《むこ》なんざ、流行《はや》りませんね」 「あとまだ、下女がいるだろう」 「お光と言って四十女の出戻りで、これは達者ですよ」 「それだけの人数が、一つ屋根の下にいるんだから、互いに見張っていたも同様だ。変なことはなかったのか」 「変なことだらけで」 「フーム」 「四人も五人も雁首《がんくび》が揃っている癖に、一人も他人《ひと》の事を知った者がないのは変じゃありませんか。番頭の狐野郎は店の帳場でパチパチやっていたと言うし、娘のお高は、裏二階の自分の部屋に、養子の浪太郎は店の奥の四畳半に、下女のお光はお勝手に頑張っていたとしたらどんなもので」 「……」 「四人のうちの一人が、そっと主人の部屋に忍び込んで、だいそれた主殺しをやったところで、誰も気のつく気遣いはありません」 「その三人か四人のうち、怪しい様子をして、人に見られたとか、動きのとれない証拠でも残したものはなかったのか」 「ありましたよ」 「?」 「番頭の佐多吉の前掛《まえかけ》が、主人の死骸の傍《そば》に落ちていたとしたら、どんなもので」 「?」 「その前掛の紐《ひも》は平打《ひらうち》の真田《さなだ》で、馬の手綱になりそうな頑丈なものですぜ、——主人を殺す気で忍び込んで、急に気が変ったかも知れません。あの番頭の狐野郎は、主人に内証でどんな悪いことをして居るか、わかったものじゃありませんね」 「それから?」 「それだけでも、親分、主殺しの疑いで縛り上げる証拠になるじゃありませんか」 「待ってくれ、主人の金三郎は、槍の穂で突き殺されているはずだぜ。番頭の前掛は三日前に来たとき、忘れて行ったかも知れない。主人の部屋へくると狐馬の番頭でも前掛くらいは外すだろう」 「そう言えばそれっきりですが」 「ほかには」 「養子の浪太郎は、これは三日前じゃありませんよ、昨日《きのう》の、それも主人の殺されるちょいと前に、隣の部屋へ入ったのを、下女のお光が見ていますよ。あの押入に鞘に入った槍の穂を入れてあった部屋ですよ」 「フーム、少し変だな」 「まだありますよ。娘のお高は十九という小娘の癖に法外な大金を持っているし、下女のお光も内々で男に貢《みつ》いでいるということで」 「まア、それはそれとして、まだ雪丸の母のお時が下手人でないという、極め手が一つもないようだ。御苦労だがもう一日見張って来い」 「何を見張るんで?」 「主人の部屋へ外からそっと忍び込む工夫はないか。家中の者の着物に、返り血を浴びたのはないか」 「……」 「お時は誰を疑っているか、そんな事を訊くのだ。それから、宝来家の金がなくなっているかも知れない。念入りに調べてみるがいい」 「それじゃ親分」 「待ちなよ、まだ酒はあるぜ。せっかくのお前の頼みだが、内儀の縄は手軽に解くわけに行くめえよ。雪丸を始め、家中の者にそう言うがいい、本当の下手人が出なきゃ、どうにもなるまいとな」 「親分、そいつは可哀そうじゃありませんか。あの女は人などを殺せる女じゃありませんよ、親分」  必死と口説いたところで、平次の首は縦には動きそうもありません。     四  翌る晩、明神下へ来た、八五郎の萎《しお》れようというものはありませんでした。 「さア、八さん、今晩はイキの良い鰹《かつお》がありましたよ。お酒も二本、——豪気《ごうき》でしょう」  そう言うお静の顔を、ジロリと見返して、八五郎はいつになく苦虫《にがむし》を噛み潰すのです。 「どうした、八、たいそうな機嫌だな。金の事か色事か、どこで腹を立てて来た」  平次までが、そんな調子で物を言うのを、八五郎はおよそ不機嫌に、 「あっしはもう、腹が立って、腹が立って、今日という今日は、十手捕縄を返上して——」 「どっこい、番太の株だって安くはないぜ。何をまた虫がかぶったんだ」 「聴いて下さい、親分。木場の留吉親分が、なんと言っても、あの内儀の縄を解かないばかりでなく、次第によっては、あの女を拷問にかけると無法な事を言い出すじゃありませんか」 「すると?」 「すると、——主人金三郎を、この俺が殺したという、下手人が二人も出るじゃありませんか。忌々《いまいま》しいのなんのって」 「待ってくれ。一人は倅の雪丸に違いあるまいが、あとの一人は誰だ」 「あの狐面の番頭の佐多吉で」 「あ、そこまでは俺も気が付かなかったよ」 「番頭の佐多吉の野郎は、あの先代右京の後家の、お時に二十年越し惚れているんですってね」 「二十年越し? おそろしく気が長げえな」 「佐多吉は三十八、内儀は三十五、隣町で育って内儀が十八で宝来右京に嫁入りしたとき、佐多吉は宝来右京の手代だった。そんなに思い詰めたんだから、狐みたいな顔になるのも、無理はありませんね」 「フーム、可哀そうでもあるな」 「主人の金三郎が、先代の後家のお時にちょっかいを出すのを見て、居ても立っても居られず、何度殺そうと思ったか知れない——とこれは本人の言い草ですよ」 「その晩は?」 「金三郎のいつもの術《て》が始まると、居ても立っても居られず、内儀のお時が這々《ほうほう》の体《てい》で主人の部屋から逃げ出した後、しばらく経って」 「待ってくれ、お時が逃げ出してから、後と言ったな」 「四半刻《しはんとき》(三十分)とは経たなかったそうで——主人は部屋の中で寝込んだ様子だから、自分の前掛の紐でひと思いに締め殺すつもりで忍び込むと」 「主人はもう槍の穂で殺されていたというのだろう」 「そのとおりで」 「前掛の紐では突き殺せないよ、——だが、番頭の佐多吉は、よくそれだけのことを白状する気になったな」 「前掛を証拠にキュウキュウやりましたよ。それに、下女のお光は大焼餅で、番頭さんが、離屋の御内儀に気があって、覗《のぞ》いたり、泣いたり、手紙をつけたり、変なことばかり——と面白半分に饒舌《しゃべ》るからたまりませんや」 「すると、番頭の佐多吉は、磔刑柱《はりつけばしら》を背負わずに済むわけだな」 「そんなことでしょうね。狐面の深草の少将じゃ、磔刑栄えがしませんよ」 「まア、そう言うな。二十年もの長いあいだ、一人の女を思い詰めるというのは、たいしたことじゃないか。お前なんかは二年とも続くめえ」 「ケッ、御挨拶で。あっしなんかは自慢じゃねえが、日に三人くらいは岡惚《おかぼれ》を拵《こしら》えまさア、その代り有難いことに、小野小町をけしかけても、三日とは惚れてやらねえ」 「呆れた野郎だ。ところで、雪丸はどうした」 「これは可哀想でしたよ。なんにも知らない母を拷問にかけられちゃ、私は生きちゃ居られないから、皆んな白状します。金三郎を殺したのはこの雪丸に違いありません——と名乗って出たには驚きましたよ」 「フーム」 「ずいぶん苦労しているから、身扮《みなり》だって良くはないし、口をきかせると、とんだべらんめえだが、言うことには筋が立ってる。金三郎は叔父と言ってるけれど赤の他人で、宝来の家を横領するために、父の右京を毒害し、そのうえ跡取りのこの私と母を物置に抛り込み、母に無体なことを言います——と、十三と言っても、身体も逞ましく、智恵も弁舌も確《しっ》かりしている」 「フーム」 「八丁堀の旦那方の前で、こう訴え出たのには驚きましたよ」 「どうして金三郎を殺したか、それをお前は聴かなかったか」 「聴きましたよ。雪丸の言うには、金三郎の部屋の北側には、畳の上に幅五寸ほど、長さ三尺の掃出し窓がある。外からその窓を押し開け、そっと部屋の中に忍び込んで、隣の部屋からかねて知っている押入の槍の穂を取り出し、一と思いに怨み重なる金三郎を刺した——とこうです」 「母親はそれを知らずにいたというのか」 「母のお時は金三郎にさいなまれて、離屋《はなれ》へ帰ると、苦労と疲れで人心地もないほどだったそうで、雪丸はその隙にそっと脱け出したと言います」 「少し変だな」 「もっとも、金三郎の部屋には、掃出し窓の外に、荒い格子窓もありますが、いくら荒くても、格子は格子だから、大柄の雪丸ではもぐれません」 「格子と、主人金三郎の死んでいた場所は?」 「一間くらいは離れているでしょうよ。手長島から雇って来ても、そこまでは届きません」 「ところで、雪丸は名乗って出ても、お時はまだ許されなかったのか」 「今頃は戻ったことでしょう。あっしは逢わずに来ましたが」 「それじゃ、御苦労でも、もういちど行ってみてくれ」 「こんどは何をやらかすんで」 「お時の縄を解いても、その子の雪丸を縛っちゃなんにもなるまい。母親にしてみれば、自分が縛られるよりも悲しんでいるに違いない」 「そう言えばそのとおりですが」 「養子の浪太郎は、なんの用事で主人の部屋の隣へ入ったか、——それを訊くんだ、それからもうひとつ、これは大事だぞ、忘れるな」 「ヘエ」 「雪丸を、もういちど六畳の掃出し窓から潜らせて見ろ。首尾よく通り抜けるかどうか」 「ヘエ」 「それから雪丸の心掛けと、身だしなみ、得手なもの、上手なものを訊くんだ」 「ヘエ」  八五郎は不承不承ながら引受けるほかはありません。     五  この事件に関する限り、平次は明神下の家から一歩も外へ踏出すまいと決心をしたのです。今までもずいぶんこんな例はありますが、いよいよ大詰の大事な幕になると、八五郎では持ちきれずに、平次が乗出して解決をつけることになって居るのです。  だが、こんどは違います。さいしょ雪丸に誘われたとき、八五郎が抜け駆けの手柄を立てて、平次をアッと言わせる気だったとわかると、何がなんでもこの事件を八五郎一人の手で埒《らち》をあけさせ、もう三十にもなる男に、立派な手柄を立てさせたかったのです。  そして嫁でも貰ってやったら、伯母さんもさぞ安心をするだろうと、時には年寄り臭いことも考え、女房のお静と相談もしてみる平次でした。そう言う平次もまだ三十を越したばかり、お互いに若くて貧乏くさくて、江戸の庶民生活を楽しんでいるに違いありませんが、いつまでも十手を腰に、長んがい顎で梶を取って歩く八五郎の姿が、イッパシ親分面をして居る平次には、つくづく可哀そうでならない気にもなるのでした。  その八五郎が翌る日の朝も明神下に来ました。前の日の報告をして、その日の活動方針を指図してもらうわけです。相変らず平次という人形遣いがなければ、一本立ちの活動などは思いも寄りません。 「親分、ますます変なことになりましたよ」 「なんて情けない顔をするんだ、少しは見当が付いたのか——、雪丸を縛ったのか」  畳みかけて訊く平次の前へ、 「見当が付くくらいなら、『馬鹿野郎』を食いに来やしませんよ。金三郎を殺したと名乗って出た雪丸が、掃出し窓を潜《くぐ》らない。変じゃありませんか、人間の首を絞める羅宇《らう》殺しでもありゃ、借りに行きますが」  八五郎はこんな途方もないことを言うのです。 「そりゃ変だな、あの掃出し窓の外《ほか》には、金三郎の寝ている六畳にもぐり込む場所はない——が、雪丸は三日や七日の間に、急に肥るはずもあるまい」  平次もこれは予想外の様子でした。 「あっしも腹が立ったから、うんと雪丸を取っ締めましたよ。母親の命を助けたきゃ、本当のことを言え——とね。すると雪丸は泣き出してしまって、——三年前までは、隠れん坊をして、よくあの掃出し窓から潜って入ったから、今でも潜れると思って、いい加減なことを申しました——とこうなんで。母を助けたさの一心で吐《つ》いた嘘だから、腹も立つけれど殴るわけにもいかない」  八五郎のその時の様子を想像しただけで、平次はツイ吹出してしまいました。 「大方そんな事だろうと思ったよ。ところで、あの六畳の窓は開いていたのか、荒い格子があると言ったが」 「窓の雨戸は開いていたが、障子は閉っていたそうです。もっともその障子には、舌で開けた穴が二つ三つありましたがネ」 「舌を濡らして障子に穴を開けるのは、雪丸の外にはあるまいな。賢いようでも十三になったばかりじゃ」 「それは雪丸も白状しましたよ。たぶん母親を呼び込んで、金三郎がどんなことをするか、それが見たかったのでしょう。年頃が年頃だから」  八五郎は心得顔に額を叩くのを、 「悪い気じゃあるまいよ。自分の親父を殺したかも知れず、そのうえ宝来の家を横領して、天にも地にも掛け換えのない、神様のように思っている母親を、執《しつ》こく口説き廻している、狒狒《ひひ》のような金三郎の、仕様が見たかったのだよ」  平次はこうたしなめました。 「ところで、面白い話はこれからなんで」 「なんだえ」 「養子の浪太郎が、主人の金三郎の部屋の隣へ忍び込んだわけ、なんだと思います? 親分」 「知るものか——と言ってしまっては、お前ががっかりするだろうから、大方、娘のお高と逢引するためじゃないのか」 「えらいッ、銭形の親分は、色事となると、まるっきり目は届かねえが、こんどばかりは当ったと言いたい——が」 「なんだ違っているのか」 「いちおう褒めて置かなきゃ、励《はげ》みにならないでしょう。これからもあることで、若い女や男が妙な素振りをしたら、十中八九は色事と思って間違いありませんがね、こんどばかりは違いましたよ。あの浪太郎という奴はまた、桁外《けたはず》れの馬鹿野郎の大欲張りで」 「それがどうしたのだ」 「近頃お高がそっぽを向いて、白い歯も見せないし、主人の金三郎とは性が合わなくて、事ごとに喧嘩だ。今にもあの家を追ん出ようという時、あの浪太郎の野郎何をしたと思います」 「さあ?」 「親分じゃそんな気になれないから、見当も付かないでしょうが、あの野郎は宝来家を出されるに違いないとわかると、せっせと金をくすねて溜めました。今日は帳場から二分、昨日は主人の用箪笥から一両と、それが積って、なんと三十五両と溜めたのを、自分の部屋の葛籠《つづら》の中へ温めておいたのを、あっしと木場の留吉親分が、番頭の佐多吉を立会わせて調べると、苦もなく見つかったじゃありませんか、馬鹿もあんなのは別誂《べつあつら》えの底抜けで」  八五郎の話は、いかにも得意そうでした。 「馬鹿じゃないよ、その男は」  平次は変なことを言います。 「ありゃ、利巧者ですかね、——もっとも二年や三年の間に三十五両も大金をくすねるのは、馬鹿には出来ない芸当かも知れませんね」 「いや、そのくすねた三十五両を、誰にでも見付かるように、自分の部屋の葛籠《つづら》に入れておいたから、浪太郎の命は助かったのだよ」 「ヘェ?」 「その金が見付からないか、日頃の行いに少しの暗い影もない浪太郎なら、親殺しの疑いが真向からふり冠《かぶ》ってくる。怖い話じゃないか、その小恥かしい泥棒根性のお蔭で、浪太郎の命は助かったのさ」 「ヘェ、すると金三郎を殺したのは誰でしょう。お時でなく、佐多吉でなく、雪丸でなく、浪太郎でないとすると」  八五郎は大きく固唾《かたず》を呑込みました。親分平次の方程式は、だんだんわからなくなるばかりです。     六 「ところで、話はまだあるはずじゃないか」 「なんでしょう、親分」 「雪丸の母親の縄は解いたはずだが」 「親分はそこまで見通しで?」 「知ってるとも、木場の留吉親分、時々やって来たよ。雪丸がなにか言い出すに違いないから、それまでは母親のお時を留めおくようにと言ってやったんだ。雪丸が掃出し窓から出入りしたと言い出したので、この上お時を縛っておくまでもあるまいと思ったのだろう」 「ヘエ、驚いたね、あれも親分の指図だったんですかえ」  八五郎は少し拍子抜けのした顔です。 「ところで、母親のお時と、倅の雪丸の対面はどうだった」 「大|愁嘆場《しゅうたんば》でしたよ。母子が手を取り合って泣くのを、始めて見ましたが、ちょいとあっしも鼻が詰りましたよ。女と男なら、蹴飛ばしてやるが——」 「それっきりか」 「右京の後家のお時というのは、たいした女ですよ。三十五というにしては、少し老けづくりですが、あんな品の良い女を、あっしは見たこともありません。あの女なら倅の身代りに処刑《おしおき》台にも登るだろうし、雪丸という小僧はまたたいした小僧で、あの利巧さと気組なら、母親の罪くらいは背負って立ちますね」 「たいそう感服したね、ところでなにか言わなかったのか」 「なんにも言やしません。泣いてばかりいましたよ」 「それから、雪丸はなにか得手なものがあったはずだが」 「あの身体で気組だから、勝負事はなんでもうまいそうで。そのうえ智恵が逞しいから、行末が思いやられると——母親の心配は絶えなかったそうで」 「……」 「喧嘩でも、角力でも、凧あげ、駈けっこ、腕角力、足角力、謎々、石けり、石投げ、泳ぎ、根っ木、あらゆる遊び事や勝負事で、この子に叶うものはないそうです。子供の智恵の逞しいのは、挾み将棋でも五目並べでも大人が及ばないし、遊び事のうまいのになると、大変なのがありますね」 「そんな事もあるだろうな」 「あっしはあの母親も好きだが、あの子が減法好きになりましたよ。母親が縛られると、その身代りに立とうというのは、並大抵の覚悟じゃありません」 「たいそう打ち込んだものだな」 「芝居の色子《いろこ》や蔭間《かげま》みたいな人形首と違って、坂田の金太郎のような、可愛いうちにも凛《りん》としたところがあって、たまらねえ小僧ですよ。もっとも、銭形の親分が怖いんだそうで、どうしてもここへは来てくれません。利巧なようでも子供ですね、銭形の親分を鍾馗《しょうき》様のように思い込んでいる」 「ところで、その雪丸という小僧は根っ木が得手じゃないのか」 「あれは危ない遊びですね。お上からもお布令が出て何べんも差し留められたが、まだ廃《すた》りませんよ。近頃は梅や樫で拵えた根っ木が不足で、船釘を使ったり、鉄で打たせた凄い道具を使い、大人どもは賭け事に使っているようですが——」 「それは知ってるが、雪丸に向きそうじゃないか」 「近所の人はそう言って居ましたよ。雪丸は根っ木の名人で、少し離れた足場から描いた輪の中に根っ木を打ち込み、一寸一分も狂わずに、ズバリと一尺も突っ立てるそうで」 「フーン」  根っ木という遊びはずいぶん古くから行われ、江戸は申すまでもなく地方にも行われ、わけても長崎や水戸に盛んであったと言われております。旧幕時代は幾度かの禁制にも屈せず、賭け事としてまで行われましたが、太さ一と握りほど、長さ一尺五寸から二尺ばかりの、杭の先を鋭く削って尖らせ、それを柔かい土の上に力任せに打ち込み、相手の根っ木を倒す遊戯で、勇ましくはあったが、ずいぶん危ない遊びでした。過って人に当れば、大変な怪我をしたわけです。  堅木で拵《こしら》えた根っ木が、船釘となり鉄で拵えた特別な道具となっては、その危険さは倍加したわけで、親達は言うまでもなく、役人までも頭痛の種にしたのは無理もないことです。 「親分、ともかく、冬木町まで行ってみましょうよ。口で言っただけでは埒があかないから、親分の眼で現場を見た上、掛り合いの人皆んなに逢ってみて下さい」  八五郎もこんどは抜け駆けの功名を思い止って、平次を引張り出そうとするのです。 「出かけよう。最初から、お前に任せたのは悪かったよ。どりゃ」  平次もついに御輿《みこし》をあげました。草履をつっかけて、夏の暑くなりかけた陽を除けながら、永代を渡り、八幡様の横手から、冬木町の宝来家へ着くのです。 「おや、八、ちょいと待ってくれ」 「なんです、親分?」 「あれを見るがいい」 「根っ木ですね」  町の子が五六人、冬木町の路地の土の柔かいところに集まって、樫の木の杭や、船に使う巨大な釘などを持出し、大地の上に三尺四方ほどの輪を描き、一間ほど離れたところから、銘々の根っ木を飛ばして、精いっぱいの業を争うのです。 「あれを見たか、八」 「ヘエ?」 「俺はもう帰るよ、冬木町まで行くにも及ぶめえ」 「下手人はどうするんで」 「金三郎を殺したのは、それ、鎌鼬《かまいたち》さ」 「あ、また鎌鼬か、江戸には鎌鼬は居ないはずじゃありませんか」 「近頃そんなエテ物が唐天竺《からてんじく》から渡ったんだよ。口惜《くや》しかったら縛って突き出すがいい、——おや、おや、鎌鼬の顔が見えるじゃないか。路地のところだ、塀の蔭さ、ホラ、臆病そうに覗いて見ちゃ顔を引っ込めたろう、根っ木がやりたくて、たまらないんだね」  平次の指をたどると、物蔭からヒョイと出た少年の顔、——それはよく肥った逞しい顔、色の白い金太郎を見るような、雪丸の臆病らしい顔を、八五郎は忘れるはずもありません。 「あッ」 「シッ、声を立てるな、そっと帰ろう」  愚図愚図する八五郎の手を取って、平次は大急ぎで引揚げるのです。     *  事件はまったくうやむやに終りました。ほど経てから八五郎が、宝来金三郎殺しのことを訊くと、平次はニヤリとして、 「もう話しても大事あるまい、下手人はあの雪丸さ。隣の押入から槍の穂を持出して、金三郎の部屋の外から障子を押しあけ、荒い格子の間に手を突っ込んで、根っ木のコツで槍の穂を、金三郎の喉笛に叩きつけたのさ」  平次は事もなげです。 「あっしもそんな事だろうと思いましたよ」 「母は助けたいが、自分が殺したと知られたくない。俺のところへ来るのは怖いが、八五郎なら頃合いだろうと思ってお前を頼って行ったのさ」 「太てえ小僧で」 「掃出しの窓から潜り込んだと言ったのは巧い術《て》だよ。あとで実地を調べるにきまってるから、自分はすぐ無実で許されると見抜いている」 「ヘェ?」 「あの子はお前よりは余っぽど利巧だよ。まア、腹を立てるな、父親の仇は討ちたかったし、母親も助けたかったのだ。獣物のような金三郎を母の傍から追っ払うには、外に術《て》はなかったのだろう、——二度と悪い事をするような子じゃない。知らん顔をして居ろ。宝来の家を継いで、金三郎の娘のお高に半分身上を分けたというじゃないか。母親のお時の指金だろうが、それで天下太平さ」  平次はそう言って、八五郎の初手柄をフイにしたことをあまり気にもしない様子です。もっとも、お静に顎をしゃくってみせて、一本つけさえすれば、大抵のことは目出度く忘れる八五郎でもありました。  八五郎子守唄     一  お彼岸過ぎのよく晴れた日、裏の空地で張り物をしていた女房のお静は、姉さん冠《かぶ》りの手拭も取らず、帯へ挾んだ袷《あわせ》の裾《すそ》もそのまま、いかにもあわてた様子で飛び込んで来ました。 「ね、お前さん、——大変なんです。本当にどうしたことでしょう」 「何をあわててるんだ、——舌切雀に糊《のり》でも舐《な》められたのか」  平次は相変らずの不精煙草、腹ん這いになったまま、南縁に並べた秋草の花を眺めているのでした。 「それどころじゃありませんよ。八五郎さんの伯母さんが、顔色を変えて飛び込んで来ましたよ。親分が縁側にいると聴いて、庭の方へ廻りましたが」  そう言いながら気が付いたらしく、あわてて前帯に挾んだ裾をおろして、姉さん冠りの手拭を、クルリと首をまわして脱《と》るのです。  もう二十三にもなるのに、子のないせいもあるでしょう、いつまでも若くて清潔で、どこか子供っぽいところのあるお静です。 「心配するな、向柳原の伯母さんなら、いずれ、八の野郎が岡場所へでもはまり込んで、三日も帰らないと言った話さ。あの野郎は気がきかないから、伯母さんのところへ付け馬でも差し向けたんだろう」  平次は自若として、とぐろをほぐそうともしません。 「お早ようございます」 「おや、向柳原の伯母さん、たいそう早いんだね。今日はまたどんな用事で——」  平次はようやく起き直りました。縁側には朝陽が一パイに射して、秋晴れの清々《すがすが》しさはまた格別ですが、日向に立った伯母さんの顔は、お静を驚かしたほど、恐ろしくむずかしいものです。 「親分、私はもう口惜《くや》しくて口惜しくて、ボロボロ泣きながら飛んで来ましたよ」  八五郎の伯母は、勢い込んでまくし立てると、ハタと絶句して、前掛で涙などを拭くのです。 「どうしたんだ伯母さん。八の野郎がまた、変なことでもやり出したというんで?」 「変なことも程々で、大概のことには馴れているから驚かないつもりですが、——あの子と来たら、私の知らないうちに、どこかの馬の骨と仲よくなって、女の子まで産ませていたんだから、私はもう——」  叔母さんはまた口惜しさがコミあげて絶句するのです。 「そいつは気が付かなかったね。八にしては上出来——と言ったら伯母さんに怒られるだろうが、あの明けっ放しの八五郎が、隠れて女を拵《こしら》えるなんて、こいつは——」  平次はツイ吹き出しそうになって、お静にたしなめられました。伯母さんの真剣さを見ると、こいつは笑いごとではなかったのです。 「昨夜《ゆうべ》、戌刻《いつつ》(八時)前でした。小意気な年増が来て——八五郎親分の伯母さんでしょう——というから、そうですよ——と言うと、……私は八五郎親分に可愛がられた者ですが、二人の間に子供まであるのに、わけがあって別れてしまいました。こんど、身の振り方に困って、遠いところへ行くについては、足手纏いのこの子を引取って頂きたいと思って参りました。——そう言って、四つか五つの可愛らしい女の子を、入口の二畳へ押し込むように、そのまま帰ろうとするじゃありませんか」 「なるほど、それは驚いたな。——八の野郎に女があって、子まで生ませたというのは、私も初耳だ」  この話の飛躍的な筋には、平次も少なからず驚いた様子です。 「私は胆《きも》をつぶして女の袖を引留め——あいにく本人は留守だが、八五郎に子なんかあるわけはない。子までなした女を振り捨てる八五郎でもない。——それはなんかの間違いだろうと言うと、——女が契《ちぎ》った男を忘れていいものでしょうか、八五郎に訊けばわかります——と、私の手を振りもぎって、逃げ出してしまいました。町は暗いし私は年寄りだし、どうすることも出来ません。まもなく八五郎が、鼻唄交りで、呑気な顔をして戻って来ました。その憎らしいということは——」 「八はなんと言うのです」 「癪《しゃく》にさわるじゃありませんか——そんな事は知らない——と言う癖に、面白そうに女の子を抱きあげて、灯りの傍《そば》でツクヅク顔を眺め——このとおり顎も長くないし、俺には少しも似ていないが、丸ぽちゃの色白で、とんだ可愛い子じゃありませんか、——せっかくだからしばらく飼って置きましょうよ——と猫の子でも貰ったような気楽なことを言ってるんです。私はもう腹が立って、腹が立って——」  と、気性者《きしょうもの》の伯母さんは我慢のならない様子です。     二  八五郎の底の抜けた呑気さは、銭形平次も心得ておりますが、それにしても自分の子を三年も四年も放っておくはずもなく、毎日一度や二度は岡惚れを拵えるという八五郎ですが、隠し子などを神妙に隠しおおせて、伯母さんや平次にあっと言わせる柄でもありません。 「八にそんな芸当があろうとは思われない。いったい、どんな女でした? 伯母さん」  平次も珍しく興味をそそられた様子です。 「入口は暗いし、女は顔を隠すようにしていたから、よくは見なかったけれど、二十四五かしら。毛の多い人で、小意気なつくりが目立ちましたよ、——素人じゃありませんね、鼻筋の通った、頬のふっくりした、蒼白い顔で——本当に八五郎にはもったいないくらい」  伯母さんの口からこう——八五郎にはもったいないくらいというのです。向柳原の宵闇に、撤き散らした謎と魅力は思いやられます。 「叔母さんは今までに一度も逢ったことのない女ですね」 「あんな化け者を、見たこともありませんよ。憎らしいほどの良い女でしたが、どうせ碌《ろく》な者でないにきまっています」  伯母さんはぷんぷんしてまだ怒りが解けない様子です。 「連れて来たのは? どんな子です。たしかに八の子に違いないでしょうか」 「腹は立つけれど、本当に可愛い女の子ですよ。あまり人見知りもしない——歳をきくと四つ——と指を四本出して見せるし、名前はお雛《ひな》——とはっきり言いますが、お母さんは? と訊いても、あっち、あっちとまるっきり見当が付きません」 「知らない家へ置かれて人見知りをしないところを見ると、盛り場で育ったか、商売人の子か、ともかく、派手な暮しの家の子らしい」 「そうでしょうか。ともかく、一と晩私の家に泊めたけれど、ろくに泣きもしません」 「面白いな」 「ちっとも面白かありませんよ。——私は御存じのとおり早く亭主に死にわかれて、自分の子というものを育てたことがないでしょう。持て余して腹ばかり立てていると、八五郎が見兼ねて、私が相手になってやるからと、二階へつれて行って、お菓子をやったり、わかりそうもない話をしてやったり、子供が少しむずかると、座布団の上に寝かしてやって、自分の褞袍《どてら》を掛けて、調子っ外れの子守唄なんか歌ってるじゃありませんか」 「八が子守唄をね、——そいつは聴き物だろう。子守歌の|めりやす《ヽヽヽヽ》は家元も御存じあるめえ」 「私はもう、腹を立てて寝てしまいましたがね、——昨夜はとうとう八五郎の馬鹿が、夜っぴてあの子の守《もり》をした様子ですよ。——どうしたものでしょう親分。八が気に入った女があるなら、引摺り込んでも駈落ちをしても、野暮な文句を言う私じゃありませんが、身許も親もわからない子供を持込まれちゃ、世間の手前、これが姪《めい》でございますと、披露も出来ないじゃありませんか」  それは無理もないことでした、平次は慰めようもなくしばらく考えておりましたが、 「ともかく、行ってみましょうよ。相手が八五郎だから、冒頭《はな》っから甘く見ているが、あれでとんだところに隠し女があったのかも知れないし」  平次はお静のけげんな眼に送られて、伯母さんと一緒に出かけました。明神下から向柳原へ、近いとも言えるが、黙って歩くと、ちょいと|で《ヽ》があります。平次も叔母さんも、銘々のことを考えて、向柳原の裏長屋へ着いたのは、もう昼近いころでした。 「あれですよ、親分」  叔母さんは、入口の格子戸も開けずに、平次に囁《ささや》くのです。なるほどそう言われて気がつくと、二階から調子のはずれた胴間声《どうまごえ》で、子供の毬唄《まりうた》が聴えるではありませんか。 「八の声だね」 「本人は子供をあやしているつもりでしょうが、あんな唄を聞かされちゃ大概の子は虫を起しますよ」  伯母さんは、善意と悪意とこね交ぜたように目配ばせをして格子を開けました。 「何しているのさ、銭形の親分がお出でだよ」 「いいよ、いいよ、こっちから昇って行くから」  平次は伯母さんを撫《なだ》めるように、狭い梯子を二階に昇りました。  万年床に破れ障子、壁には古着屋ほどに夏冬の物をブラさげて、その中で子供をあやしている八五郎は、まことに黄表紙の一頁、やもめ暮しの大世話場でした。 「済みません、親分。この子がなかなか離れないもんで」  けろりとしてこんな事を言う八五郎です。     三 「お前に隠し子があったんだってね。伯母さんが胆を潰《つぶ》して俺の家へ飛び込んで来たよ。その子の母親は誰だえ」  平次は少し畳みかけました。古畳の上に片膝を突いて、八五郎の抱いている、女の子の顔を覗《のぞ》きながら、 「それがわからないんで、困ってしまいましたよ。昨夜から考えているんだが、どうしても見当が付きませんよ」  八五郎は長んがい顎をブルブルンと振るのです。 「嫌な野郎だな、子までなした仲なら、今さら文句は言わねえ。伯母さんを説き落して、俺が仲人をしてやるよ。いさぎよく白状しな」 「白状するにもしないにも、身に覚えのないことで」 「まるでお白洲《しらす》だ。——お前が関《かか》り合った女を片っ端から思い出してみな。どうせ過去帳をひろげて見るほどの人数じゃあるめえ」 「それがその」  八五郎の顔はクシャクシャになるばかりです。 「仕様のねえ野郎だ。子供を持ち込むくらいだから、どうせ、行きずりの岡惚れや、色街の商売女じゃあるめえ」 「どうしても思い出せないんで。この子の顔を見て、鑑定《めきき》して下さいよ。この子を産んだ母親の見当は付きませんか。とんだ可愛らしい子でしょう、親分」 「どれ見せな、俺が抱いたところで、見当も付くめえが——」  平次は、八五郎の手から牛蒡《ごぼう》抜きに、女の子を受取りました。色白の丸ぽちゃで、二重顎の眼の大きい、まったく可愛い子です。身扮《みなり》もよく、友禅の袷《あわせ》、腰に巾着は提げておりますが、中には紙に包んで小判が一枚、書いたものはなんにもありません。 「守り袋は空っぽですよ。迷子札《まいごふだ》も臍《へそ》の緒書《おがき》もありゃしません」 「小判一枚添えたのは、捨てる子への親の慈悲だろう」 「そんな慈悲があるなら、親の名だけでも教えておくか、書いたものを身につけさせれば良いのに。良い年増だったそうですよ、親分」  八五郎は釣り落した魚みたいなことを言うのです。 「諦めろ、——お前には顔を見せたくなかったんだ、——もっとも、この子の身扮のちぐはぐなところや、付け紐のつくろい、鍵裂《かぎざき》のつくろいなどの下手さ加減を見ると、母親は針を持ったことのない女だ」 「ヘエ?」 「その守り袋を見せてくれ、——紐が切れて、——丈夫な糸で縛ってあるが、お前はこの糸をなんだと思う」  擬《まが》い物の唐錦《からにしき》の守り袋、その紐が少し摺り切れて、一カ所丈夫な糸で縛ってありますが、その半透明な糸に特色があります。 「釣糸じゃなし、弓弦《ゆみづる》じゃなし、——これはなんでしょう。見たことのある糸ですが」 「楊弓《ようきゅう》〔遊戯用の小弓〕の弦だよ、八」 「あ、なるほど」 「楊弓の弦の屑《くず》で、子供の守り袋の紐を繕《つくろ》うのは誰だろう」 「楊弓に凝った人は、そんなたしなみの悪いことをしませんね」 「楊弓場の女だよ。矢取り女にはずいぶん良い娘がいるから」 「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」 「言い交したのはなかったのか」 「お生憎で、ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二三人あるが、結改場《けっかいば》(楊弓場)の矢取り女じゃ、色男の方が役不足で」 「よくそうヌケヌケしたことが言えたものだ。まアいい、お前の法螺《ほら》に付き合っちゃいられねえ、この子の母親を捜すのが大事だ」 「無理ですよ親分、江戸には結改場が十三カ所、その矢取り女は五十人や百人じゃありません、——急のことでは人別《にんべつ》調べはできません」 「それでは、お前がこの子をおんぶして、十三カ所の結改場を、母親を尋ねてでも歩くか、それともこの子を嫁にやるまで見てやる気か」 「育ててやっても構いませんよ。とんだ可愛い子で、すっかり私に馴染んでしまいましたが」 「呆れた野郎だ——ところで身扮はおおかた調べたが、履物《はきもの》はなかったのか」 「紐のついた草履があったようですよ、——伯母さん」  八五郎が梯子の下に声を掛けると、 「はい、これでしょう」  伯母さんは、赤い鼻緒の草履を持って二階へやってくるのです。 「どれどれ、まるで玩具《おもちゃ》の草履のようじゃないか」 「可愛らしいでしょう、その草履を穿《は》くあんよと来たら、お人形のようですよ」  八五郎は夢中です。 「八、——この草履を見たか、裏は漆喰《しっくい》が付いて真っ白じゃないか」 「そう言えばそうですね」  小さい赤い鼻緒の草履は、裏を返すと真っ白、——黒い土などは少しもありません。 「十三の結改場で、近所に普請をしているところはないのか」 「大きな結改場というと、両国、浅草、深川の八幡様裏、神田明神様——はツイ鼻の先だし、あ、ありますよ、白山前の結改場、あの後ろの白山神社は、明暦《めいれき》の大火で焼けてそのままになっていたのを、こんど公儀《こうぎ》で御造営することになり、加藤|遠江守《とおとうみのかみ》様の御係りで、公儀から金が五百両、檜《ひのき》五千本の寄付があり、今は造営の真最中」 「あたりはさぞ漆喰だらけだろう」 「そのとおりですよ、親分」 「それじゃさっそく、白山下の楊弓場を門並《かどなみ》のぞいて、この子の女親を捜してこい、——目印には、この子の顔立を覚えて行くがいい。お前とは顔馴染の女に違いない。眼の下に泣きぼくろのある、唇の両方の端のハネ上がった、愛嬌のある——こんなところはよく親に似るものだ」  平次もそれ以上は説明が出来ません。 「それじゃ直ぐ行って来ましょう、——泣きぼくろのある、唇の隅のピンとハネ上がった、矢取り女——あっしも妙に心当りがあるような気がします」  八五郎は子供を伯母さんに預けて、イソイソと出て行くのです。     四  八五郎が平次の家へ来たのは、その日の夕方でした。 「母親が見つかったか」  明神下の路地を入って格子に立つと、平次の方が見付けて声を掛けたのです。 「見付けたような気がしますが」 「たいそう元気がないじゃないか。まア入れ」 「妙な気がしましてね」  八五郎はノソリと入りました、まことに気のない顔です。 「女を探し当てたら、昔々大昔に言い交わした女かなにかで、ひどく諸行無常を感じたとでもいうのか」 「どういたしまして、言い交わすところまで行かなかったんで、——六年前の岡惚れの一人、両国の結改場で鳴らした、お半でしたよ」 「まア、あのお半さんが? あの人なら私もよく知ってますよ。男と女と二人まで子供があるのに、楊弓の上手《じょうず》でたいそうな人気でしたよ」  お静が、隣から声を掛けました。両国育ちのお静が名物の矢取り女を知っていたのも無理はありません。 「お前はまア、黙っていろ、——八五郎それからどうした」 「あの子の顔——泣きぼくろに、変った唇の型——なんか思い当る顔でしたが、白山前の楊弓場を一軒一軒覗いてみて思い当りました。あの子の顔によく似た好い年増が、半田屋という店にいるじゃありませんか、——もう二十五六でしょうが、それにしてもひどくふけて、小意気な身体つきや顔立こそ昔のままですが、ちょいと見たくらいでは思い出せないほどやつれておりました」 「……」 「でも、あっしは一と目でハッと気が付きましたよ。六年前両国の結改場にいて、たいそう評判になった矢取りのお半に間違いもありません。女も好かったが、愛嬌があって、女ながらも楊弓の上手、一表二百本の矢を、百本近くも当てて朱書《しゅがき》という位付きの腕を持った、たいした女でした」 「その女——お半とか言った、それがお前と——」 「冗談言っちゃいけません。あっしの色でもなんでもありゃしません。もっともこっちは一生懸命になって、三月ばかり通いましたが、そのうちに良八《りょうはち》とかいう好い男が付いているとわかって、綺麗に諦めてしまいましたよ、——諦める方なら馴れっこで——ヘッ」 「惚れるのも早いが、諦めるのも早い」 「お蔭で三十になっても独り者で」 「ところで、そのお半に逢って口をきいたのか」 「あっしが見付けて口をきこうとすると、お半は楊弓の矢を拾いながら、そっと私を拝むじゃありませんか」 「拝んだ?」 「なんにも言ってくれるなという謎でしょう。女にモノを頼まれて、首を横に振ったことのない、あっしでしょう。いずれわけのあることだろうと思って、そのまま帰って来ましたが、悪かったでしょうか、親分」 「良いも悪いもないよ、それでお前の気が済むなら、俺はなんにも言うことはない。その代り、黙ってあの子を養って行かなきゃなるまい」 「仕様がありません。昔の岡惚れが拝むんですもの、後でお礼の一つも言われれば、それでいいとして、ともかくあの子を見てやりましょうよ、——こんな可愛い子ですよ、親分。——こう言ううちにも、伯母が叱って泣かせなきゃいいが、それが心配で——」  こうした八五郎に、平次もなんにも言うことはありません。     五  それから十日ばかり、明神様の森も色づいて、虫の音は夜毎に繁くなりますが、どうしたことか、八五郎は向柳原に籠ったきり、滅多に顔も見せません。  両国へ行った序《ついで》にお静に覗かせると、 「八五郎さんはどうしたことでしょう、近頃はあの子で夢中なんですって。玩具や、お菓子を買ってやったり、自分で見立てて小布《こぎれ》を買ってきて、伯母さんに——雛ちゃんが寒そうだから、おちゃんちゃんを縫ってくれと言うんだそうです。始めのうちは呆れていた伯母さんも、近頃はその一生懸命さにほだされて、朝から晩まで大賑いですって、変なものですね」  子のないお静には、二人の夢中さが不思議でたまらなかったのでしょう。  月がようやく円くなりかけた頃、とうとうこの事件も最後の幕に行き着きました。 「大変ッ、親分」  八五郎の『大変』が、その幕を開くのです。 「どうした、八、——まさかあの子が逃げ出したわけじゃあるまい」  平次はなにか予期していたように、あわてた八五郎を迎えました。 「とうとうやられましたよ」 「誰が?」 「白山前の結改場の半田屋久太郎です、——金が出来て、男が好くて、土地の顔役で、矢取り女だけでも五六人使っている半田屋久太郎が、目刺しのようにやられましたよ」 「人間が目刺しのようにやられるかよ」 「眼を突かれたんだから、目刺しじゃありませんか」 「で?」 「それっきりならなんでもありませんが、その半田屋のお職《しょく》が、あの子の母親のお半だから大変じゃありませんか」 「矢取り女のお職てえ奴があるか」 「ともかく、行って見て下さい。白山の茂吉が来て、朝っから引っ掻き廻しておりますが——」 「よし行ってみよう。だが、お前はどうしてそれを知ったんだ。向柳原と白山は近くねえところだが——」 「三日に一度は白山の結改場を覗いて見ていますよ。今朝は巣鴨に用事があって、出かける途中でヒョイと覗くと——」 「よしよし、お雛にむずかられて、お前は五年か六年前の岡惚れを思い出したんだろう。巣鴫に用事がある顔じゃねえ」 「ヘェ、どうも相済みません」 「お前はお雛の事を誰にも言わなかったか」 「なんにも言やしません。お半はあっしの顔を見ると、眼をパチパチさせて、そっぽばかり向いていますよ」 「わけがありそうだ、しばらくなんにも言うな。さア、行こう」  平次と八五郎は、白山に急ぎました。  その頃の楊弓の盛んだったことや、結改場の様子、楊弓の道具、方法のことなどは、この物語にも二三度書きました。さいしょは高貴の遊びであったと言いますが、徳川の三代、四代将軍のころから、江戸市井の贅沢人の遊びとなり、幾度かの転化の後、徳川末期から明治の初めへかけては、私娼窟《ししょうくつ》の慰みに堕落してしまいました。平次の活躍した頃は、まだなかなかに洒落た遊びで、江戸の町人達は、この技を競って、番付まで出来るほどの盛大さでした。  二尺八寸の弓に、九寸の矢、七間半の距離から、黒革のあずちに張った三寸の的を射るのですから、これはなかなかの技巧を要します。矢は二百本をもって一表とし、そのうち五十本を当てたものを朱書、百本的中を泥書《でいがき》、百五十本を金貝《きんばい》、百八十本を大金貝と言い、後には非常な名人が現われ、特に都一中《みやこいっちゅう》のごときは二百本をことごとく当てたという話が伝わっております。  その楊弓の結改場が、江戸中に十三カ所、白山の半田屋久太郎は、自分の経営する結改場の裏に住んでおりました。なかなかの構えですが、店中は物々しくも緊張しております。 「おや、銭形の親分。ちょうどいい、俺一人では持て余しているところだ」  迎えてくれたのは、白山の茂吉でした。中老人と言ってもいい年配の御用聞ですが、若い銭形平次に傾倒して、来てくれたのを本当に喜んでいる様子です。 「八が通りかかったそうで、お調べの邪魔しちゃ悪いが、少し心当りがあるから、ちょいと見せて貰おうと思ってやって来たが」 「邪魔どころじゃない。まだ御検屍前だし、下手人の疑いの掛った女を挙げたものの、どうしたものか、迷っているところだよ」 「それじゃ」  平次と八五郎は家の中へ入りました。結改場とは店仕切りがあって、奥はなかなかに広く、四五人の若い女が、ウロウロしているのも特色的です。奥の一と間、六畳の窓際に、死骸はそのままにしてありました。 「このとおりだ」  白山の茂吉が死骸の顔に掛けた手拭を取ると、 「あッ、これは?」  さすがの平次も思わず声を呑んだほどの凄まじさです。殺されたのはこの家の主人で、顔の通ったボスでもあり、有名な美男でもある半田屋の久太郎、三十四五の男でした。  身なりは絹物には違いありませんが、明らかに平常着《ふだんぎ》のまま、少し着崩れて、引き吊った四肢、握りしめた拳——それにたいした不思議もありませんが、仰向けになった両眼に、二本の楊弓の矢——左右に一本ずつの磨き抜いた美しい矢が——突っ立っているではありませんか。矢は深々と二寸ほどずつ、二本の矢が並行でなく、不思議な角度で交差しているのも奇怪ですが、明らかにその矢で死んだらしいにもかかわらず、眼からはたいして血の流れていないのも、不思議と言えば不思議です。  平次は顔をあげて窓を見ました。死骸の前の南窓は大きく開いて、そこには格子もありません。 「ここの雨戸は閉っていたのかな」 「お民を呼んで訊こう、——久太郎の世話をしていた女だ」  茂吉が後ろを振り向くと、子分の者が気をきかして、若い女を呼んで来ました。これがお民というんでしょう、二十そこそこの矢取り女、自分の踏んでいる大地がいつでも揺れているようにクネクネと不思議な曲線を描いて歩く女です。きりょうはなかなかによく、目鼻立ちの大きい、表情いっぱいに媚《こび》を氾濫させる顔立でもあります。 「……」  お民は黙ってしなを作りました。 「お前が見付けたそうじゃないか」  平次はぶっきら棒に問います。 「びっくりしましたワ、明るくなったので、雨戸を開けようと思って来ると、雨戸は開いたままで、親方がこんな風になって窓際に引っくり返っているんですもの」 「顔はどっちを向いていた」 「横の方に向いていました。手を投げ出して」 「窓は開いていたと言ったな」 「開いたままでした。親方はだいの暑がりやで、宵のうちは開けておく方が多いんです。——たいてい私が閉めますが、——昨夜は金貝連《きんばいれん》の賭け勝負があって、遅くなったものですから、お安さん、お留さん達と一緒に、そのまま私も寝てしまいました」 「何時頃?」 「亥刻半《よつはん》(十一時)近かったようです。今朝になって此室《ここ》を覗いて、私はもう」  お民はまた息を呑むのです。 「窓の向うはなんだ」 「お半さんの部屋です。昨夜も頭痛がすると言って、お客様があるのに早く引っ込んでしまいましたが、ここと廊下続きになっております」  お民は意味あり気にしなをつくるのです。 「銭形の親分、気が付くだろうが——」  白山の茂吉は妙に含みのある調子でした。 「?」 「あの窓からこの窓まで三間そこそこだ。あの窓の中には、女ながらも楊弓の上手と言われたお半がいるのだよ——そのお半はわけがあって主人を怨んでいる」 「戸は締っているようだね」 「それも不思議の一つさ。こっちの窓には、さいしょから灯《あかり》が点いていたことだろう。もっとも、今朝は消えていたそうだ。風が入るから無理もないことだが——」 「そのお半はどうした?」 「こっちへ来てみてくれ」  白山の茂吉は先に立って、曲りくねった廊下伝いに、向うの部屋に導くのです。その途中から、平次は何やら八五郎に囁いて、お半との不意の対面を避けさせました。     六  暗い部屋の中に、しょんぼりとうな垂れている女は、足音が近づくと、不精らしく顔をあげました。——昔は美しかったに違いありませんが、活気と魅力を磨り減らしたような蒼白さや、カサカサした皮膚、熱っぽい眼、なんとなく哀れ深い姿です。 「お前はお半というのか」 「あ、銭形の親分、親分ならわかって下さるでしょう——私はなんにも知りません。憎い憎い、殺してやりたいと思った親方ですが、今度のことは、私はなんにも存じません」  銭形平次の顔を見知っていたものか、お半は急に乗出すのです。 「お前はゆうべ早く引っ込んだそうじゃないか」 「ひどく頭痛がして、我慢が出来なかったので、お安さんに頼んで、戌刻《いつつ》(八時)前に店から引っ込みました」 「向うの窓、主人の部屋にどんなことがあったか、気が付かなかったのか」 「なんにも存じません。私は自分のことばかり考えておりました」  自分のことではなく、それは、八五郎に押し付けたお雛のことだったかもわかりません。 「お前は主人を怨んでいたのか」 「怨んでおりました。両国の結改場から、うまい事を言ってここに引寄せ、さんざん稼がせた末、商売の邪魔になるからと、私の子供——六つになる男の子を里へやると言って隠してしまいました。たぶん殺してしまったことでしょう。それから一年経っても居どころも教えてくれず、たって訊くと、私はひどい目に逢わされました。近ごろ町内の井戸から、子供の骨が出て大騒ぎをしましたが、お上に訴えるにはそれが私の倅だという証拠が一つもなく、私は毎晩悪い夢ばかり見ております」  お半は言葉を切るのです。白山の茂吉に腰縄を打たれて眼を拭くのさえ自由になりません。平次は慰め兼ね、しばらく涙の納まるのを待ちましたが、続いて、 「この部屋に楊弓は置かなかったか」  と訊くと、 「私はあんなものを傍《そば》へおくのも嫌で、近頃はこの商売から身を退《ひ》きたいと思っております」  というのです。 「久太郎の楊弓の腕前は」  と訊ねると、お半は軽蔑した調子で、 「少しはやったようですが」  と、いかにもそっけないものです。 「お前のもう一人の子はどうした? たしかお雛とかいう女の子があったはずだが——」  平次の問いは唐突《とうとつ》でした。ハッと挙げたお半の顔は見る見る上気《のぼ》せて、活々《いきいき》と頬を染めましたが、それもやがて潮《うしお》のごとく引いて、もとの蒼白い顔色に還ります。 「私の娘——どこへ行ったかわかりません。十日ほど前から姿を隠しましたが、——今は私一人で、親も子も兄弟もありません」  そう言うお半は激しく首を振るのです。  幸か不幸か、八五郎は母屋の誰彼と話して、精いっぱい証拠あさりをしているのでしょう。ここへはまだ顔を出さず、平次は役目を離れて、妙にホッとした心持になります。もとの母屋に帰ると、八五郎が待っておりました。 「親分、変な家ですよ、——それにあの主人の久太郎という男は——仏様の悪口を言うようだが、恐ろしい女道楽で、三年前、両国の人気者のお半を二人の子供付も承知で引っこ抜いた時は、たいそうな身の入れ方でいずれ女房にするだろうと言われましたが、一年ほど前に男の子が見えなくなり、その頃からもう一人の矢取り女のお民を可愛がり始め、店中の噂になりましたが、近頃はそのお民に不都合があるとかで、もっと若いお安に乗り換えて、お民も少し飽きられたようで。ヘッヘッ、とんでもない仏様ですよ。南無」 「罰の当った野郎だ——」 「まア、騙《だま》されたと思ってお安に逢ってみて下さいよ。まだ十八だというのに、——」 「そんな者に逢うのはお前に任せておこう。ところで、主人の久太郎は持病がなかったか、それを聴きたい。毎晩|煎薬《せんじぐすり》かなんか呑んでいなかったか」  平次がこう言う下から—— 「腎《じん》の薬だからと言って、夜食の後で妙なお薬を持薬に呑んでいました。湯呑で一杯ずつ」  若い小女が口を出すのです。 「お前は?」 「お留さんというのですよ」  八五郎が答えました。 「その薬の残りはないのか——いつも誰が拵《こしら》えて呑ませるのだ」 「お民さんの役目ですよ。鳥兜《とりかぶと》とか言って、間違えば大変な毒になるんですって」 「昨夜《ゆうべ》は?」 「お民さんが、宵のうちにこの部屋へ持って来たようです」 「今朝はその湯呑がどこにあった」 「洗ってお勝手にありました」  お留という娘は、平次が訊くままに、何もかも素直に答えるのです。 「さて、銭形の親分。この辺でもう、下手人を送ったものだろうな」  白山の茂吉は言うのです。 「下手人?」 「お半だよ。あの女は二人の子供が行方不明になったうえ、久太郎に捨てられて、自棄になって殺したに違いない。窓は向き合って開いていたし、こっちには灯りが点いていた。その間はたった三間、楊弓の上手からみると、七間半離れた三寸の的より、鼻の先の眼玉の方が楽だ」 「待ってくれ、茂吉親分。どんな楊弓の上手も、二本の矢を一度には放せない。一方の眼をやられると、声を立てるとか、動くとか、もがくとかするはずだ。二本目の矢が来るまでジッとして待ってるのは変じゃないか、——それに、久太郎は窓の方に背を向けて、窓わくに凭《もた》れていたはずだから、向うの窓から二つの眼を一ぺんには射られない、——それに死骸はところどころ斑《まだら》になっているのも変だ」 「すると?」 「俺はまだあの娘《こ》に訊きたいことがある」  平次はもういちどお留を呼びました。 「なア、お留、——お前の知ってることだけを隠さずに話してくれ。お半は縛られているが、お前が正直に言いさえすれば、あの縄を解いて貰えるのだよ」  平次はこの正直そうな娘が、先刻《さっき》からお半の縛られている部屋を覗いてみたり、茂吉の顔ばかり気にしている様子を見ていたのです。 「お半|姐《ねえ》さんは可哀そうですよ。あの人はずいぶん親方にひどい目に逢わされながらも、私達を庇《かば》ってくれたんですもの」 「そんな事もあるだろうよ。ところで、そのお半には、子供が二人あったということだが、お前は知っているのか」 「私は来たばかりでよく知りませんが、矢取り女が、子持じゃ人気に拘わると言って、親方がお半さんの男の子を隠したとか里にやったとか言います。女の子はしばらくお半さんと一緒に居ましたが、それはお半さんがどこかへ預けたようです」 「よしよし、ところで、もう一つ訊きたいが、お民は昨夜《ゆうべ》、チョイチョイ店を開けたと思うが、気が付かなかったか」 「一度、どこかへ行ったようです。親方に呼ばれたのかも知れません、——ひどく顔色が悪いので、どうしたのかと訊くと、——イヤなものを見て、胸がわるい——と言っていましたが、亥刻《よつ》(十時)頃でしたかしら」 「それっきり誰も、奥の親方の部屋へは行かなかったのだな」 「いつもお安さんが行くんですけれども——昨夜は昼からの客が立て混んで疲れたからと、私と一緒に寝てしまいました」  お留を返すと、平次は白山の茂吉に、 「さア、茂吉親分、——お半の縄を解いてやるがいい。親分に解いて貰った方が、お半も気持が良かろう」  と、思いも寄らぬことを言うのです。 「それはまた、どういうわけだ。主人の久太郎を殺したのは楊弓の矢でないとわかっても、殺したのはお半ではないと言えまい」  茂吉は少しつむじを曲げた様子です。 「あんなに両方の眼を突いても、たいした血も出ていない、——久太郎が死んでから、楊弓の矢で突かれた証拠だ——煎薬に毒が入っていたに違いない」 「……」 「それから右と左と、眼を射た矢が互いに向きも揃わずに、喰い違ったようになっている。三間先から楊弓で射たのでなく、すぐ側に来て、手に矢を持って死骸の眼に突っ立てたのだ。二本の矢の方角が違っているのはそのためだ。生きている人間なら、鼻の先へ来て眼へ矢を突っ立てるのを、黙っているはずはない」 「すると?」 「久太郎は若返りの薬でやられたのだ。毎晩湯呑一杯ずつ呑む鳥兜の煎汁《せんじじる》を、久太郎を怨む者が、倍も濃くするか、鳥兜か玉芹《たまぜり》の根をわさびおろしですり込むか、——それを呑めば、久太郎はフラフラになるに違いない」  いずれも運動神経の麻痺や呼吸麻痺を起すのです。 「そんなことがあるだろうか」 「そのままにしていても久太郎は死んだに違いない、——が、そのままにして置けば、薬湯《やくとう》を持って来た者に人殺しの疑いがかかる。曲者はそれがいやだった。窓の向うに久太郎を怨んでいるお半が宵寝《よいね》をしていることを知って、床の間にあった楊弓の矢を一本ずつ、死んだようになっている久太郎の眼に突っ立てた——恐ろしい女だ」 「女?」 「ともかくも、茂吉親分の手で、お半の縄を解いてやろう」 「なるほど、そう聴けば、もっともだ」  白山の茂吉は平次と一緒に向うの部屋へ行くと、黙ってお半の縄を解いてやりました。 「有難うございます、親分方、——でも私は親方を殺そうと思っておりました——が」 「もういい——詳しいことは後でゆっくり聴こう」  平次は手を挙げてお半の口を封じました。その時、 「親分、——あの女は手におえませんよ。クネクネしている癖に、いざとなると、喰い付く引っ掻く、——おお、痛てえ」  八五郎はそう言いながら、お民の縄尻を取って引いてくるのです。 「白山の親分、久太郎殺しの下手人を受取ってくれ、——白山の親分一人の手柄でいいとも」  平次はそう言い捨てて、美しい囚人《めしゅうど》のお民を茂吉に引渡して帰り支度をするのです。     *  追っかけて何やら言おうとするお半を、そのまま追い返して平次と八五郎は家路を急ぎました。 「下手人はお民とわかりましたが、あっしにはどうも腑に落ちねえことがありますよ」  八五郎はこう水を向けるのです。 「お前はまた、腑だの臓物《ぞうもつ》だのと、余計なものを持っているんだな」 「お半が、あの子を、あっしのところへ置いて行ったのは、どういう考えだったでしょう」  八五郎にはそれが先ず呑込めなかったのです。 「お前を後添にして、あの子を育てようというわけじゃない」 「ヘエ?」 「不足らしい顔をするな、お半はあの子の命を助けたかったのさ」 「?」 「お半は久太郎が憎かった。男の子はたぶん、久太郎に殺されたことだろう。いずれは倅の敵《かたき》を討とうと思っていたが、久太郎は表面はお半の主人だ——主殺しは罪のうちでも一番重い。磔刑《はりつけ》でなければ鋸《のこぎり》引きだ。本人はそれでもいいとして、主殺しは罪三族に及ぶと言われ、下手人の親も子も、兄弟も首を切られる」  それは恐ろしく残酷な事実でした。徳川期の刑の記録によれば、浪人の下僕が激怒のあまりその主人を殺したために、はるか奥州に住んでなんにも知らずにいた、その下僕の親も子も死刑に処せられ、兄弟|甥姪《せいてつ》まで流罪にされた例があり、また一例では、主人の娘と情死した手代が、主殺しと見なされて、同じく親兄弟まで刑死したことが書き残されております。  お半が主と名のつく久太郎を殺す決意を固めたとき、第一番にその娘のお雛の無事を願ったのも無理のないことでした。主殺しに子供があるとわかれば、間違いもなくその首も刎《は》ねられるのです。 「すると?」 「お半は、お前という人間を買ったのだよ。八五郎親分なら間違いもなくお雛を助ける上に、あの子を可愛がって育ててくれるだろうと、そう思ったに違いない。哀れなことだが、見込まれたお前を少しは見直したよ」 「でも、あっしに預けると、いつかは、親分の耳にも入るじゃありませんか」 「俺の耳へ入っても、八五郎ならなんとかうまくやってくれるに違いないと思ったことだろう。もっともこの俺が小耳に挾んだところで、そんたヒドい事はしないにきまっている」  平次は自分の気の弱さも知っているのです。 「よくよく甘く見られたわけで」 「それでいいのだよ、——お半は、お前の後姿を拝んでいたぜ。いずれ、そのうちに、お雛を受取りに来るだろう、——その時はそう言ってやるがいい。この世の中に女の仕事も少ないわけではない、楊弓場の矢取り女などは廃《よ》して、堅い一文商売でも始めるがいい——とな。そして、あんな可愛い子があるんだから」  平次はそう言って、フト言い過ぎに気が付きました。せっかく馴染んだお雛を奪われるのは、八五郎に取ってはひどく淋しそうです。  濡れた千両箱     一  深川の材木問屋春木屋の主人|治兵衛《じへえ》が、死んだ女房の追善《ついぜん》に、檀那寺《だんなでら》なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千両を吊り台に載せて、木場《きば》から谷中《やなか》まで送ることになりました。  三千両の小判は三つの千両箱に詰められ、主人治兵衛の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭《かしら》の辰蔵が宰領《さいりょう》で、手代りの人足とも総勢六人、柳橋に掛ったのはちょうど昼時分でした。 「悪い雲が出て来たね、鳶頭《かしら》、この辺で夕立に降り込められるより、一と思いに伸《の》しちゃどうだろう」  番頭の源助はそう言いながら、額の汗を拭き拭き、お通《つう》の水茶屋《みずじゃや》の前に立ちました。 「この空模様じゃ筋違までも保《も》ちませんぜ。お通は仕度をしているはずですから、ともかく晴らしてから出かけましょう」  辰蔵は吊り台を担いだ人足を顎で招くように、お通の茶屋の暖簾をかき上げました。  同時に、ピカリ、と凄まじい稲光り、灰色に沈んだ町の家並が、カッと明るくなると、乾ききった雷鳴が、ガラガラガラッと頭の上を渡ります。 「あれッ」  界隈で評判の美しいお通は、——いらっしゃい——と言う代りに、思わず悲鳴をあげてしまいました。赤前垂、片襷《かただすき》、お盆を眼庇《まびさし》に、怯《おび》え切った眼の初々しさも十九より上ではないでしょう。  ちょうどその時、—— 「喧嘩だッ」 「引っこ抜いたぞ」 「危ないッ、退《ど》いた退いた」 「わッ」  という騒ぎ。両国広小路の人混みの中に渦を巻いた喧嘩の輸が、雪崩《なだれ》を打って柳橋の方へ砕けて来たのでした。 「どうした。鳶頭《かしら》」 「喧嘩ですよ、浪人と遊び人で」 「荷物が大事だ、中へ入れろ」 「ヘエー」  葭簀張《よしずばり》の水茶屋で、喧嘩にも夕立にも、閉める戸がありません。三千岡の吊り台はそのまま土間を通って磨き抜いた茶釜の後ろ、——ほんの三畳ばかりの茣蓙《ござ》の上に持込まれました。前から予告があって、時分どきには春木屋の荷物が休むことになっていたので、お通も、お通の母親も、これは文句がありません。  もっとも吊り台を担ぎ込んだ一と間は、直ぐ神田川の河岸っぷちで、開け放した窓から往き交う船も見えようという寸法ですから、涼みにはまことに結構ですが、物を隠すにはあまり上等の場所ではありません。  鳶頭《かしら》の辰蔵は、吊り台の上に掛けた油単《ゆたん》を引っ張って、一生懸命、千両箱を隠すと、番頭の源助はその前に立ち塞《ふさが》って、精いっぱい外から見通されるのを防ぎました。  続いて、もう一と打、二た打、すさまじい稲光りが走ると、はためく大雷鳴、耳を覆《おお》う間もなく篠突《しのつ》くような大夕立になりました。  向う側の家並も見えないような雨足に叩かれて、ムッと立昇る土の香、——近頃の東京と違って電気事業も避雷針もない江戸時代には、びっくりするような大夕立が時々あったということです。  まだ六月になったばかり、暑さは例年にないと言われましたが、それにしても、真昼の大夕立は滅多にないことでした。  お蔭ですっぱ抜きに始まった大喧嘩も流れて、おびただしい弥次馬は、蛛蜘《くも》の子を散らすように、近間《ちかま》の店先に飛込んでしまいました。  お通の茶店へも十二三人、濡れ鼠のようなのが飛込みましたが、買切ったわけでもないのですから、源助苦い顔をしながら断るわけにも行きません。 「おッ、何て自棄《やけ》な降りだい、まるで川の中を歩いているようだぜ」 「まア、松さん」  ポンと飛込んで来たのは、舞台で本雨を浴びて来たような意気な兄イ、濡れた単衣《ひとえ》をクルクルと脱ぐと、 「ほら、ざっと絞って乾かして置いてくんな、——心配するなってことよ、そんな腐った単衣なんざ、お邸《やしき》へ帰りゃ何枚でもあらア」  無雑作に放り出して、切り立ての褌《ふんどし》に、紺の香が匂う腹掛のまま、もう一度ドシャ降りの中へ颯《さっ》と飛出しました。 「まア、裸でどこへ行くつもりなのさ、松さん」  お通は追っ掛け、戸口まで出ましたが、もう男の姿はその辺に見えません。また一としきり、ぶり返した大降り、光る、鳴るの伴奏で、しばらくは面《おもて》も向けられません。     二  その晩、清養寺の庫裡《くり》に置いた千両箱が三つ、煙のごとく消え失せてしまったのです。  寺の境内に起ったことは、寺社奉行の支配で、町方は関係しないのが普通ですが、揉《も》めごとや公事沙汰《くじざた》と違って、人殺しや泥坊となると、寺社奉行の馴れない手先では始末におえません。  そこで、早速町方へ渡りがついて、与力笹野新三郎が係りとなり、谷中から浅草一帯を縄張にしている、三輸《みのわ》の万七を現場に走らせましたが、それだけではどうも気になってなりません。 「平次」 「ヘェ、御呼びで」  ちょうど八丁堀の役宅へ顔を出した、銭形平次が呼び出されました。 「寺社から頼まれて、万一手落ちがあっては町方の恥だ、御苦労だがお前も行ってくれ」 「ヘエ」  平次はおよそ腑に落ちない顔を見せます。 「不服か、平次」 「とんでもない、旦那、御申付けに背く平次じゃ御座いませんが、それでは三輸の兄哥《あにき》の顔が潰《つぶ》れます」 「町方一統、——引いては御奉行の顔が潰れても構わぬと言うのか」 「ヘエ、恐れ入りました、——それでは潮時を見て出て参りますが、万七兄哥の顔も立ててやるように、差向き八五郎をやって下さいまし、あれなら三輪のも腹を立てません」 「八五郎で大丈夫か」 「あの野郎は馬鹿みたいな顔をしておりますが、あれで、なかなか好いとこが御座います。万事は私が後楯《うしろだて》になって糸を引いてやります」 「それじゃ、八五郎を呼べ」  笹野新三郎の声に応じて、敷居の外からヌッと長んがい顔を出しました。 「旦那、ここにおります、ヘッヘッ」 「何だ。そんた所にいたのか、ヘッヘッ——て挨拶はないぜ」  と平次。 「でもね、親分、——馬鹿みたいな顔——はひどいでしょう」 「何だ、聞いていたのか」 「ヘエ、——」 「見掛けよりは利口だって言ったんだから、礼を言って貰いたい位のものだ。旦那のお話を聞いてたんなら、改めて取次ぐまでもあるめえ。谷中の清養寺に飛んで行ってみな」 「ヘエ」 「昨夜千両箱の張番をした人間より、千両箱を拝んで、宵のうちに帰った人間を調べるんだよ」 「なるほどね、さすがは銭形の親分だ、眼のつけどころが違う」 「褒められたって奢《おご》りもどうもしないよ、ドジを踏むな」  平次は相変らず子分思いの癖にポンポン言います。 「ところで、親分」 「何だ、まだ言い遺すことがあるのか」 「三輪の万七親分の鼻を明かしても構わないでしょうね」  ガラッ八は少し顎を突き出して、長い舌でぺロリと上唇を嘗《な》めました。 「馬鹿野部、撲《なぐ》り倒されない用心をしろ、旦那が笑っていらっしゃるじゃないか」 「ヘッ、ヘッ、それじゃ行って参ります」  ガラッ八は笹野新三郎の前を滑ると、八丁堀から谷中まで、尻をからげて宙を飛びます。     三 「おや八|兄哥《あにい》、大層好い鼻じゃないか」  三輪の万七とその子分のお神楽《かぐら》の清吉、朝っから調べ疲れて、見当もつかずにいるところへ八五郎を迎えて、苦々しいとは思いながらも、何となくホッとした様子です。 「三輸の親分、当りはつきましたかい」 「いや、まだついたという程ではねえ」 「笹野の旦那が——寺社御奉行のお頼みだから、三輪のも精いっぱいの働きを見せるだろう、やい八五郎鼻毛なんぞ抜いてる暇があるなら、谷中へ行って万七親分の仕事振りを見習って来い、好い修業になるぞッ——ってね、ヘッヘッ」  八五郎にしては一生一代のお世辞です、もっとも八丁堀から谷中まで考えて来たんで、これくらいの事が言えたのでしょう。 「そうかい、まだたいした働きも仕事もしたわけじゃねえ、まア、見てくれ」  万七も悪い心持はしなかったでしょう、ツイ先に立って庫裡へ入ると、調べ口の復習《おさらい》をするように八五郎に話してくれました。 「柳橋で大夕立に逢ったので、千両箱の吊り台が寺の門を潜《くぐ》ったのは申刻《ななつ》下り、そのまま役僧の手で受け取って、住職、寄進|主《ぬし》立会いの上、封印を切って調べるはずだったが、法用《ほうよう》で出かけた住職も、深川から来るはずの治兵衛も、夕立に降り込められて、陽のあるうちに間に合い兼ねた。夜分千両箱を三つも置くのは物騒だし、身体の弱い治兵衛はとうとう来なかったので、庫裡へ一と晩泊めることになったが、それが悪かった」 「ヘエー」 「夜中過ぎまでは確かにあったというが、番人がウトウトする間に、三つとも綺麗にやられた。気のついたのは寅刻《ななつ》(午前四時)少し前、それから大騒動になったが、庫裡の潜戸《くぐり》を外からコジ開けてあったから、泥坊は外から入ったに違げえねえ」 「……」 「寝ずの番をしていた鳶頭《かしら》の辰蔵が、頸《くび》を縊《くく》るといって騒いだが、それは止めた」 「寝ずの番は鳶頭一人ですか」 「寺男と小坊主が二人、時々顔を出したが、それも宵のうちだけで、子刻《ここのつ》(十二時)過ぎは辰蔵一人になった」 「すると、宵に顔を見せて、千両箱を眺めるか触るかしたのは、その寺男と小坊主が二人というわけですね、親分」  ガラッ八は宵に帰った人間に眼をつけろと言った平次の言葉を思い出したのです。 「八|兄哥《あにい》、——一応その三人が怪しいと思うのはもっとも、だが、寺男の弥十はこの寺に四十年も勤めている忠義者で取って七十一だぜ、小坊主は十三と十一、まだろくに味噌も摺《す》れねえ」 「それでも、親分の前だが、手引きは出来ましょう」 「手引きがあるなら、あんな岩乗《がんじょう》な潜戸を、外から外すような不器用なことはしねえよ」  万七は少しムッとした様子です。 「だが、三輪の親分、外から入るなら、何もあんなに骨を折って、念入りに岩乗な潜戸などを外すまでもなかったでしょう。寺方だから本堂の方にはろくな締りもねえ、少し窓は高いが、這い上って廊下伝いに、杉戸一枚を開けさえすれば、すぐ庫裡じゃありませんか」  ガラッ八の明察、万七は少したじろぎました。 「大層目先が見えるようになったんだね、八兄哥」 「ヘッ、それほどでもねえ」 「馬鹿なッ」  大舌打を一つ、この法外な自惚男《うぬぼれおとこ》をさげすむように、万七と清吉は顔を見合せました。 「他に宵に帰ったのはありませんか、親分」 「千両箱の吊り台を担いで来た人足は、陽のあるうちに、番頭の源助と一緒に深川へ引取った。住職は大夕立に降り込められて、目黒の檀家《だんか》から帰ったのは薄暗くなる頃、——それから、途中から帰ったのが怪しいと言うなら、もう一人あるよ。寛永寺の役僧は、三千両の寄進に立会うはずで、昼過ぎから寺に来ていなすったが、引渡しが翌《あく》る日と決って、これも夕方引揚げなすったそうだ、——宵じゃねえが八兄哥に言わせると、これも怪しいんだろう、行って訊いてみな」 「ヘッ」  八五郎一ぺんに悄気《しょげ》てしまいました。河内山の芝居でも解るとおり、寛永寺の役僧は見識のあったもので、町方の御用聞などは、指も差せるものではありません。     四  万七と清吉とガラッ八は、もう一度寺の中を隈なく見て廻りました。庫裡の八畳の床の間には、濡れた千両箱を三つ置いて、少し汚点になった跡が今でも判りますが、押入れにも、納戸にも、床下にも、天井裏にも、須弥壇《しゅみだん》の下にも、位牌堂にも、竈《へっつい》の下にも、千両箱などは影も形もありません。小さいものと違って、かなり大きい上、一つ一つの重さが五六貫目もあるのですから、これだけ捜してなければ、先ず寺内にはないものと思わなければなりません。 「ないね、三輸の親分」  とガラッ八。 「俺は二た時も前から三度も寺内を捜したんだぜ。ないことはとうに判っているよ。泥棒が内にいるものなら、千両箱を三つも持ち出した上、御丁寧に外から潜戸をこじ開けて入って、知らん顔をしていたことになるぜ、八兄哥」  万七の言うのはもっともでした。  それから寺内の人を一人一人呼び出して貰って逢いましたが、三千両の大金を盗み出しそうなのは一人もありません。  住職は六十を越した老僧で、末寺ながら上野では幅の利《き》けた高徳、外に寺男の弥十老人と、小坊主が二人、それに檀家から預っているお類《るい》という年増女が一人、——年増というとあだっぽく聞えますが、唐臼《からうす》を踏むような大跛足《おおちんば》で、渋紙色の顔には、左の頬から鬢《びん》あたりへかけて、大焼痕《おおやけど》の引っつりがある上、髪は玉蜀黍《とうもろこし》の毛のような女——、年こそ三十前後ですが、これは又あまりに痛々しい不容貌《ぶきりょう》です。 「厚木|在《ざい》から来ているということだが、飯を炊くより外に能のない女だ、当ってみるがいい」 「当るのは構わねえが、惚れられでもすると大変だぜ、八兄哥」  お神楽の清吉は横合から嘴《くちばし》を入れました。  八五郎も一応はこの飯炊女を疑いましたが、不具で不容貌で、その上小柄で、ボロ切れのような見る影もない姿を見せつけられると、つまみ喰い以上の悪事などは出来そうにも思われません。 「何時《いつ》からここにいるんだ」 「この三月の出代りからだァよ」  間違いもない相模|訛《なま》り、少し眼脂《めやに》が溜って、傍へ寄るとプーンと匂いそうです。 「桂庵《けいあん》〔口入れ屋〕は?」 「そんなものは知らねえだよ」  どうも少し日当りの悪い人間らしくもみえます。それに五六貫目の千両箱を三つ、あっという間に持出すにしては、この女は少し弱過ぎるでしょう。 「もういいよ、向うへ行って猫の子とでも遊んできな。八兄哥、外廻りを見るか」  万七は先に立って、寺の外廻りをグルリと一廻りしました。 「おや」  ガラッ八は寺の後ろの墓地——取っつきにある、新仏《にいぼとけ》の土饅頭《どまんじゅう》の前へ立止りました、 「どうしたい、八兄哥」  と追っ駆けるように清吉。 「塔婆《とうば》が裏返しだぜ」 「なるほど、子供の悪戯《いたずら》だろう」  向うを向いている塔婆を引っこ抜いて、万七は士饅頭の上に正面を向けて立ててやりました。 「昨日《きのう》は住職がいなかったんだね」 「そうだよ、目黒へ御用で行って薄暗くなる頃帰った」 「すると、この墓は早くて一昨日《おととい》葬ったんだが、昨日の大夕立の後で、又掘り返していますぜ」 「な、何だと」  ガラッ八は大変な事に気がつきました。 「塔婆の戒名で見ると子供のようだが、それにしちゃ土饅頭が大き過ぎはしませんかね、親分」  ここまで聞くと、さすがに万七は老巧な御用聞でした。庫裡へ駈け込んで住職を引っ張り出すと、渋るのを無理に口説き落して、お神楽の清吉を寺社奉行役宅まで走らせました。新墓を掘り返す権力などは、寺も、遺族も、町方も持ってはいません。  手続に暇取って、役人立会いの上墓を発《あば》いたのはその日の夕方、予期のとおり千両箱が三つ、大して深くないところから現われた時は、ガラッ八は言うに及ばず、万七も清吉も思わず喊声《かんせい》をあげました。  幸い来合せた寄進主の春木屋治兵衛、住職と談合の上、寛永寺の役僧と、寺社奉行から出張の同心立会いの上、三つの千両箱は本堂に移され、治兵衛の手で封を切ることになりました。 「治兵衛、封に間違いはあるまいな」  と万七はさすがに黙ってはおられません。 「何分土の中に埋められて、傷んでおりますから、確かな事は申されませんが、店で拵えさせた封に間違いはないようで御座います」  治兵衛はそう言いながら、封を切って一番上の千両箱を開きました。 「あッ」  中は砂利と古金屑《ふるかなくず》、——山吹色の小判などは一枚もありません。  続いて第二、第三の千両箱が開けられました。が、いずれも同じことで、中味は綺麗にすり代えられ、砂利と金物の屑を詰めて、巧みに貫々を誤魔化しただけの事です。 「……」  並居る手先、役人、悟りすました住職や役僧も、しばらくは口も利けません。 「八兄哥、たいした手柄だ」  万七は一番先にこう言いました。危うく何もかも八五郎の手柄になるところを、千両箱の中味が砂利や金屑で、かえってホッとしたのでしょう。 「とんだ花咲爺さ、ここ掘れワンワンと来やがったろう、ヘッヘッヘッ」  下司な笑いは、お神楽の清吉の歪んだ唇から、ガラッ八の開いた口へ、てきめんに叩きつけられたのです。     五 「親分、こう言ったわけだ。三輪の親分に白痴《こけ》扱いにされても腹は立たねえが、親分の事まで何とか言われちゃ我慢がならねえ。それに——」  八五郎はすっかり取り逆上《のぼせ》て、親分の平次の手を取って引張り出し兼ねまじき勢いです。 「騒くな、八、もう少し落着いて物を言え」  平次も少し持て余し気味でした。 「そればかりじゃねえ、親分、寺社の役人の言うことが癪にさわる。町方へ頼んだのは、砂利や古金屑を詰めた箱を捜して貰うためじゃねえ。三千両の金を取戻したいからだ——ってやがる、畜生ッ」 「判ったよ、八、これはなるほど、お前には荷が勝ち過ぎた。底には底がありそうだ、行ってみるとしようか」 「有難てえ、親分」 「今晩はもう遅い、明日の朝早く出かけるとしよう。それだけ巧《たく》んだ仕事なら、早く行ったからって尻尾《しっぽ》を掴《つか》めるとも限るめえ」  平次は落着き払って、容易に立上がりそうな気色もありません。出来るだけ詳しく八五郎に話させた事件の全体を、反芻《はんすう》しながら考えているのでしょう。 「ところで親分、墓を掘り返した時、穴の中からこんなものを見つけたんですが」 「何だ、手紙のようじゃないか」 「泥だらけになってよくは判りませんが、こう書いてありますよ(今ばんうしのこく——)と」 「どれどれ、達者な手だが惜しいことに、あと先がねえ、いずれ悪者共の仲間へ牒《しめ》し合せた手紙だろう」 「万七親分にも見せてやろうと思ったが、千両箱の中味を見て、いやな事を言うから黙っててやりましたよ」 「人の悪い奴だ、——が、この手紙は思いの外役に立つかも知れない。手前《てめえ》これを持って行って、皆んなに見せびらかしてやれ。万七兄哥にも、清吉にも、寺中の者皆んなに見せるんだ、——言う迄もねえ事だが、手前は後先とも読めるような顔をするんだよ、——今ばんうしのこく——だけじゃ手品にならねえ。判ったか」 「ヘエ」 「それから柳橋へ行ってお通の茶店で見せびらかして、札止《ふだどめ》は木場の春木屋だ。主人にも番頭にも小僧にも見せて、三千両の盗人はこの手紙を書いた人間だから、明日と言わず、今日のうちに縛られるだろう———とこう言うんだ」 「本当ですかい、親分」 「本当らしく持ちかけさえすればいい。あとの事は、又あとで考え出そうじゃないか」 「……」  平次の言いつけは、いつでも意味深長なことを知っているだけに、八五郎はそれ以上訊き返そうともしません。     六  翌《あく》る日平次が谷中の清養寺へ行ったのは、まだ辰刻《いつつ》(八時)少し過ぎ、お類が朝の膳を片づけて、寺男の弥十は庭の草を毟《むし》り始めた時分でした。  一応住職にも小僧にも逢い、壊された潜戸から、掘り返された新墓、砂利や金屑を詰めた三つの千両箱を見すましましたが、八五郎の報告以上の手掛りは一つもありません。 「玉川砂利に古金物か、——どこかの石置場か、普請場へ行けば手に入るだろう。金物も古釘と鍋の破片と選《よ》り分けてあるところをみると、鍛冶屋の物置からでも盗んで来たものだろう。これは手掛りになるまいな」 「……」  千両箱の封印も泥で滅茶滅茶、春木屋の主人に鑑定がつかない位ですから、平次に解るわけはありません。 「とにかく、千両箱が寺へ着いた時は、もう中味が変っていたに違いない。小判を抜いた上、用意して来た砂利や古金物を詰めて、わざわざ墓に埋める馬鹿はないだろう」 「……」  ガラッ八はポカリと口を開いて、平次の知恵の動きを見ております。 「中味が変っているのを知らずに盗んだとすると、曲者は二た組あるわけだ、中味をすり換えた奴と千両箱を盗んだ奴と」 「親分」 「八、黙っていろ、これは存外骨が折れそうだ、——俺は中を見て来る、手前《てめえ》は、それ——」  顎をしゃくられると、ガラッ八は急に泥だらけの手紙の事を思い出しました。それを思わせぶりに持って、庭の方へ飛んで行きます。そこには寺男の弥十が、お類をつかまえて、大山《おおやま》様へお詣りに行きたい——といったような話をしているのでした。 「おや?」  千両箱を三つ積んであったという、床の間の汚点を見ると、平次は思わず声を出しました。側には小さい小坊主が一人、何やら口吟《くちずさ》みながら雑用をしております。 「八、もう帰るよ」 「あ、親分、もう見当がついたんですか」  ガラッ八は例の手紙を懐ろへねじ込みながら飛んで来ました。 「掻暮《かいくれ》解らねえ」 「ヘエー」 「帰って昼寝でもしたら、結構な知恵が浮ぶかも知れねえ。手前は両国から深川へまわって来るんだよ、ちょうど不動様の御縁日だ、半日遊び廻るには誂《あつら》え向きだろう」 「有難いね、だから金はふんだんに持っていたいよ」 「穴の明いた銭じゃ金のうちに入らないよ」 「ヘッ、見透しだね、親分、さすがは銭形——」 「馬鹿、今朝、お静を拝んで借りていたじゃないか」 「あッそれも承知か」  平次はガラッ八のとぼけた声を後に、柳橋に向いました。例の茶店にはお通も母親もおりましたが、八五郎の報告以上に、ここでも何にも解りません。 「お通、相変らず綺麗だね」 「あれ、親分さん」 「ところで一昨日《おととい》の昼頃、大夕立と喧嘩と、大金と一緒に来たんだってね」 「びっくりしましたわ、あの時は」 「三千両の吊り台はどこに置いたんだ。最初は店先、喧嘩が始まったんで奥へ入れた——なるほどね。それから大雨だろう、——雨が先か、喧嘩が先か、三千両の吊り台が先か」 「吊り台が入ると間もなく喧嘩で、あっという間もなく大夕立でした」 「雨がすっかり上がってから吊り台は出かけたろう」 「え」 「千両箱が濡れるような事はなかったはずだね」 「そんな事はありません」  清養寺の床の間の汚点の記憶が、はっきり平次の頭に蘇《よみがえ》ったのです。  茶店の裏は直ぐ神田川ですが、少しばかりの崖になって、折からの上げ汐がヒタヒタと石垣を洗っております。 「大夕立の時、ここに舟がいなかったかい」  平次は窓から顔を出しました。 「いなかったようで御座いますよ。いさえすれば直ぐ気がつくはずですから」  お通の母親がそんな事を言います。水と窓との間はほんの三尺そこそこですから、船が舫《もや》っているのを、茶店の中の者が気がつかないはずはありません。 「有難う、何か又気がついたら教えてくれ。頼むぜ」  平次は愛想よくお通に別れて、深川の春木屋へ急ぎました。     七 「これは銭形の親分さん、とんだお骨折りで」  帳場にいた番頭の源助は、平次の顔を見ると、型のごとく薄暗い店先へ飛出しました。まだ四十二三、大店《おおだな》の支配人にしては少し若いくらいですが、その代り同業中の切れ者で、身体の弱い主人の治兵衛には、まことに打ってつけの女房役だったのです。 「番頭さん、あの三千両は、ここを持ち出す時は、確かに箱の中にあったに相違あるまいね」 「それはもう親分さん、主人と私が四つの眼で見たことですから——」 「それじゃ、一昨日《おととい》の晩、店の者か、通いの若い衆で、外へ泊った者はないだろうか。ちょっと調べて貰いたいが」  平次は当然の事を訊きます。 「ヘエ、ヘエ、そんなお疑いもあるだろうと存じまして、店の者一同立会いの上、あの晩の頭数を調べて置きました。このとおりで御座います」  源助は、何やら書いたものを差出します。半紙を縦二つ折にして、それに二十五六人ほどの名前を書き、その下に一々証人の名を挙げて、夕方から夜明けまでの居所を認《したた》めておりますが、それを見ると、一人も家を外にした者はありません。 「大層行届いたことだね番頭さん、いやこうして下さるとこちとらは大助かりさ、——いの一番は支配人の源助さんで、酉刻半《むつはん》(七時)から朝まで間違いもなく店にいなすったことになる。それから二番番頭の伊之助さん、時松さん、丁稚、小僧さんから若い衆まで、一人も家を空けた者がないとは堅いことだね。いや大店の躾《しつけ》はさすがに恐れ入ったものだ、——ところで、大層見事な筆蹟だが、誰が書きなすったのだえ」 「伊之助で御座います」  源助のそう言うのを聞いて、二番番頭の伊之助は、前額《まえびたい》の禿げたところを押えてヒョイと御辞儀をしました。 「いい筆蹟だね、材木屋の番頭さんには勿体《もったい》ないくらいのものだ」 「親分さん、ご冗談を」 「ところで源助さん、あの吊り台を担いで谷中へ行った人足の名前がここにはないようだが、解っているだろうね」 「ヘエ、皆出入りの者ばかりで、よく解っております」 「じゃ、その名前をちょいと書いてくれ」 「ヘエ、——私は字が拙《まず》う御座います、伊之助に書かせましょうか」 「いや、それには及ぶまいよ、伊之さんの字はこんなに沢山あるんだから、手本にするに不足はねえ」 「ヘッ、ヘッ、恐れ入ります」  無駄を言いながらも、源助は四人の名前を書いてくれました。 「おや、源助さんは伊之助さんよりも上手じゃないか、こうむずかしい字で書かれちゃあっしにゃ読めねえ。済まねえが、その側に振り仮名を書いて貰いたいな」 「御冗談で、親分」 「冗談ならいいが、これが本音さ、そんなに学がありゃ、岡っ引なんかしちゃいないよ」 「これで宣《よろ》しゅう御座いますか」  そう言いながら源助は、ごんろく、あんじ、はったろう、うたはち——  と四人の名前に振り仮名をつけてくれました。  それから治兵街に逢って、奉公人の身許のことを細々と訊いて平次が引揚げた後へ、ガラッ八の八五郎が、恐ろしい勢いで飛込んで来たものです。 「何? 親分はもう帰んなすった、——それは惜しい事をした、大変な証拠が手に入ったんだ。泥棒仲間で牒《しめ》し合せた手紙を、千両箱を掘出した穴の底から見つけ出したんだよ。たいして汚れちゃいないから、文句は皆んな読めるぜ——」 「そんなものが証拠になりましょうか」  源助と伊之助は思わず首を出しました。 「なるとも、大なりだよ、字が滅法うまいから、掛り合いの人間の書いたのを一々突き合せりゃ、半日経たないうちに犯人が挙がるよ。番頭さん、ちょいと見せてやろうか」  ガラッ八は懐ろから紙片を引出しましたが、又あわてて引込めて、 「ブルブル、親分に見せないうちは、滅多なことが出来ねえ。これから不動様の縁日で見世物を二つ三つ冷かして、八丁堀へ行ってみるとしよう」  そんな事を言ってガラッ八は、挨拶もせずに帰ってしまいました。     八  その足で八五郎は、予告のとおり不動様の境内へ入って行ったものです。居合抜き、豆蔵の芸当、一寸法師の手踊り、と野天《のてん》芸人を一々立って見た上、今度は足芸と河童《かっぱ》、ろくろ首に大蛇の塩漬、といった小屋掛けの見世物を覗いて、一刻《いっとき》ばかり後には、鳥娘の絵看板の前に、持前の長んがい顔を一倍長くして見とれておりました。 「あッ、何をしやがる」  内懐ろの中でガラッ八の手は、袖口からそろりと入って来た細い華奢な手首をギュッと握ってしまったのです。 「あッ、御免なさい、——そんなつもりじゃ」  女は驚いて手を引こうとしましたが、自慢の強力に押えられて、どうすることも出来ません。 「待っていたぜ、自身番まで来るがいい」  ガラッ八はニヤリと笑いました。 「あッ、何をするのさ、人の手なんか握って、いけ好かない唐変木《とうへんぼく》だよ」  拝み倒しでいけないとみると、女は急にいきりたちました。  打ち見たところ二十七八、どうかしたら三十というところでしょうが、洗い髪のままに薄化粧を凝《こ》らし、手足は少し荒れておりますが、上から下まで申し分のない贅沢な身装《みごしらえ》を見ると、人の懐中物などを狙う人柄とはどうしても思えません。  第一その年増振りの美しさ、ガラッ八の懐ろの中で手首を握られたまま、必死ともがく様子は狂暴な艶《なま》めかしさを撤き散らして、思わず弥次馬の足を停めます。 「何だ何だ」 「女にからかったんだろう、厭な野郎じゃないか」 「袋叩きにしてやれ」  気の早い江戸ツ子は、事情に構わず八五郎に喰ってかかりそうです。 「やいやいやい、馬鹿な事をすると勘弁しねえぞ、女|巾着切《きんちゃっきり》を捕まえたんだ、これが見えねえか」  ガラッ八は左の手を袖口から出して、懐ろに呑んだ鉄磨《てつみが》きの十手を見せました。 「御用聞なものか。偽物だよ、畜生ッ」  女はなおも抗《あらが》いますが、ガラッ八の馬鹿力は、そんな事を物の数ともしません。 「懐ろの手紙に釣られやがったろう。どこの阿魔だか知らないが——」  ガラッ八はそのまま女を追い立てるように、永代橋を渡って、八丁堀の笹野新三郎役宅まで参りました。 「親分、とうとう捕えましたよ。あっしの懐ろを狙ったのはこの女で——」 「何だ、女巾着切のお兼《かね》じゃないか」  待ってました。と飛んで出た平次は、八五郎の獲物を見ると、少し予想外な顔になります。 「あッ、銭形の親分さん、今日は何にも盗《と》りゃしません。私を捕えて、どうするつもりなんです」  お兼は平次の顔を見ると、急に元気になります。 「八、本当にその女が手前《てめえ》の懐ろを狙ったのか」 「何だか知らねえが、いきなり内懐ろへ手を入れましたよ」 「親分さん、お目こぼしを願います。今日は本当に何にも盗ったわけじゃありません」  とお兼。 「盗りたいにも、その男は一両と纏《まとま》った金を持ったことのねえ人間だよ。お前のような玄人が狙うような玉じゃねえ。見当はその懐ろにある泥だらけな手紙だろう」 「とんでもない、親分さん」 「お兼、お前は巾着切だけかと思ったら、とんでもねえ仕事へ足を踏み込んだね」 「親分さん」 「いや俺には段々判って来る、——巾着切は重くて遠島《おんとう》、精々叩き放しか追放で済むが、三千両の盗人は、獄門か打ち首だぜ」 「親分」  お兼はさすがにギョッとした様子ですが、どこまでも、ガラッ八のケチな財布を狙ったんだと言い張ります。 「よしよし、それじゃお前の言うとおり、巾着切で奉行所へ送るとしよう、——だが、お兼、お前の巣はどこだい」 「……」 「言えまい。——種々《くさぐさ》の仕掛は楽屋にちゃんと用意してあるはずだ。顔へ煤《すす》を塗る手は古いが、目尻へ鬢付油《びんつけあぶら》を塗って、頬の引っつりを無二膏《むにこう》で拵えるとは新手《あらて》だったね。跛足《びっこ》は右と左を間違えなきゃア滅多に知れっこはねえが、三月の間、髪へ埃《ほこり》と煤《すす》を塗りこくった辛抱には驚いたよ」 「……」 「八、大急ぎで谷中へ行ってみな。清養寺の飯炊きのお類という相模女は、昼前に出たっ切り帰らないはずだから、その荷物を一つ残らず纏《まと》めて引揚げるんだ。——旦那、お聞きのとおりで御座います」  平次は後ろを向いて首を下げました。そこには与力の笹野新三郎、黙って平次の明察を聞いていたのです。 「そのお兼は、清養寺の飯炊きに化けていたのか」 「万に一つ間遠いは御座いません。お兼の顔を御覧下さいまし」 「それに相違あるまいな、お兼」  と開き直った笹野新三郎の前に、 「恐れ入りました」  女巾着切のお兼はとうとう観念の頭を垂れてしまいました。     九  清養寺の飯炊きのお類が女巾着切のお兼の世を忍ぶ姿と解っただけで、三千両の行方は一向解りません。 「千両箱を三つ盗み出して、新墓に埋めたのは、私と仲間の者の仕業に相違御座いませんが、中味を摺り代えたのは誰やら一向存じません。私共はあの中には正物《ほんもの》の小判があることと思い込んで、一時人眼に付かないように新墓へ隠しただけで御座います。砂利と古金物の詰った千両箱盗んで処刑《おしおき》になるのは、いたし方も御座いません」  お兼にこう言われると、事件は大きい壁にハタと行詰ってしまいます。  もう一つ困ったことに、ガラッ八が穴の中から拾った密書の手蹟《しゅせき》が、源助のでも、伊之助のでも、辰蔵のでも、弥十のでも、小僧達のでもなかったことです。  さすがの平次も、この上は手の出しようがありません。  翌る日の昼頃、使いに出た女房のお静は血相変えて飛込んで来ました。 「柳橋のお通さんが、三千両の盗人の疑いを受けて、松さんと一緒に縛られたんですって。お通さんはそんな事をする人じゃありません。それに大工の松さんとはこの秋祝言する事になっていたし、可哀そうじゃありませんか、助けてやって下さい。ね、お前さん」  お静とお通は昔水茶屋にいた頃の朋輩《ほうばい》で、わけても眤懇《じっこん》の間柄だったのです。 「お通や松吉にそんな器用なことが出来るものか、誰が一体縛ったんだ」  と平次。 「三輪の万七親分ですよ——松さんが大夕立の中へ飛出したのが怪しいって言うそうですが、あの仲間の揉め事で、雨なんぞ晴らしちゃいられなかったんですって」 「仕様がねえなア」  平次はもう一度出直しました。女房の友達とその許婚を救うためというよりは、町方一統の面目のために、万七を向うに廻して手柄を争うのもまたやむを得ない破目だったのです。 「八、両国へ行ってあの辺で聞いたら解るだろう。あの大夕立のあった日に喧嘩を始めた武家と遊び人の名と所を訊き出して来てくれ、大急きだぜ」 「そんな事ならわけはねえ、半刻《はんとき》(一時間)経たないうちに、二人の鼻へ縄を通して引摺って来る」 「馬鹿、縛って来いと言うんじゃねえ。名と所が解りゃいいんだ。が相手に嗅ぎ出されねえようにしろ」 「合点」  ガラッ八は疾風のように飛出しましたが、本当に半刻も経たないうちに帰って来て、 「解りましたよ、親分。——浪人は井崎八郎、北国者で剣術も学問も大なまくらだが、押借りの名人、遊び人の方は白狗《しろいぬ》の勘次という小博奕《こばくち》打ち、これも筋のよくねえ人間だ」 「所は」 「それが不思議なんだ、親分。二人とも本所《ほんじょ》の相生町《あいおいちょう》惣十郎|店《だな》の五軒長屋に隣合って住んでいる無二の仲だと言うんですぜ——」 「しめた、八、その二人を踊らせよう」 「相手は武家ですぜ」 「武家だって、押借りの名人という大なまくらだ。まさか二人の手に余るような事もあるめえ、それとも二本差しが怖いか」 「冗談だろう、親分。二本差しが怖かった日にゃ、田楽が喰えねえ。こうみえても江戸の御用聞だ、矢でも鉄砲でも——」 「もう解ったよ、八、さア出かけよう」  二人は本所相生町へ行って惣十郎店の長屋を探し当てたのはもう夕方でした。 「踏込んでみましょうか、親分」 「待て待て、浪人と遊び人はどうせ日傭取《ひようとり》のようなものだ。その後ろで糸を引いてる奴の方が太い」 「……」 「こうしようじゃないか、八」  平次は何やら八五郎の耳に囁くと、町内の番所へ入って、硯《すずり》と紙を借りて何やらサラサラと認《したた》め、懐ろから小判を一枚取出すと、それをクルクルと包んで、八五郎の手に渡しました。 「薄暗くなって顔の判らない時分を見計ってやるんだよ、いいか、八」     十 「勘次、不都合なことがあるものだな」 「何です、井崎の旦那」  壁の穴の向うとこっちで、井崎八郎と白狗《しろいぬ》の勘次は話を始めました。 「今しがたあれから手紙が来たよ、——三千両の金は手に入ったが、今急に箱を開くわけに行かぬ。いずれゆるゆる取出すつもりだが、俺達二人が江戸にいては、露顕《ろけん》の因《もと》になる、路用をやるから、今晩中に江戸を退散するように——と言うのだ」 「ヘエ——、判ったような判らねえ話だ。が、退散するもしねえも、路用次第じゃありませんか、千両も持って来ましたかい」 「とんでもない」 「それじゃ百両」 「百両ありゃ、ずいぶん一年や半年は江戸を遠退いてもいいな」 「まさか十両や、二十両じゃないでしょう」 「それが十両にも程遠いから驚くだろう」 「五両ですかい」 「たった一両だよ」 「えッ」 「驚いたろう、勘次」 「さア勘弁ならねえ。人面白くもねえ、大夕立の中で立廻りまでさせやがって、三千両の手間にたった一両とは何だ」 「俺のせいではないぞ」 「だから、怒鳴り込んでやりましょう。さア」 「刀の手前、このまま引込むわけには行かぬな」  井崎八郎と白狗の勘次は、平次の偽手紙に釣られるとも知らず、宵闇の中を相生町から深川の方へ向いました。  行く先は、大方予想したとおり木場の材木問屋、春木屋の裏口。何やら合図をすると、 「何だってこんな時分に来るんだろう。俺は、鵜の目鷹の目で見張られているんだぜ。冗談じゃない」  ブツブツ言いなから出て来た者がありました。 「時分や時節で遠慮しておられるか。あれ程の大仕事をさせながら、たった一両で追い払おうとは何事だ」  井崎八郎の声は四方《あたり》構わず響き渡ります。 「たった一両? 一体何がどうしたんだ。え、井崎さん」 「白ばっくれるない。——井崎さん手紙を見せてやりましょう」  これは勘次の声です。 「お、言うまでもない」 「何、何、——これは俺の書いたものじゃないぞ。誰かにだまされてここまで来たんだろう」 「えッ」 「さア、大変ッ」  三人が身構える間もありませんでした。 「御用ッ、神妙にせい」  闇の中から不意に飛出した平次とガラッ八。 「何をッ」  手が廻ったと見るや、井崎八郎早くも一刀を引抜いて身構えました。番頭風の男と勘次の手には夜目にも閃めく匕首《あいくち》。 「親分、三人じゃ手におえねえ。銭をッ」 「おうッ」  三方から斬りかかるのを引っ外して、平次の手が懐中に入ると、久し振りの投げ銭。闇を剪《き》って一枚、二枚、三枚ヒュッ、ヒュッと飛びます。 「あッ」  一番先に匕首を叩き落された勘次は、ガラッ八の糞力にひしがれて、蛙のように平《へ》たばりました。  続く一枚は番頭の額を劈《つんざ》き、最後の一枚は井崎八郎の拳《こぶし》を打ちます。  この闇試合は真《しん》に一瞬のうちに片づきました。幸い手に立つほどの者がなかった所為《せい》もあるでしょうが、春木屋の裏口から灯と人とが溢れ出た時は、平次の十手は二人の得物を叩き落して、後手に犇々《ひしひし》と縛り上げていた時だったのです。  番頭風の男というのは、言うまでもなく支配人の源助。穴の中で見つけた手紙も、この男が書いてお兼のお類に渡したに相違ありませんが、平次はそれと感づきながら、わざと仮名を書かせて、窮屈そうに手筋を変えて書く源助の様子を観察したのでした。     十一  曲者は四人まで縛られました。仔細《しさい》というのは、源助が若い時分に関係した女、——今では、女巾着切の強《したた》か者になっているお兼に迫られ、その手切金の調達に窮して、主人が清養寺へ寄進する三千両の大金を狙うことになったのです。  仲間はまだ外に二人、その日のうちに挙げられました。三千両を載せた吊り台が、予定のとおりお通の茶店で休んでいるところを狙い、井崎八郎と勘次は馴れ合い喧嘩をして弥次馬と一緒に茶店に雪崩れ込み、源助は吊り台を庇《かば》って、帳場の後ろへ入れるのを合図に、窓の外に潜んでいた二人の仲間が砂利と古金を詰めた、偽物の千両箱と摺り換える手順になっていたのです。  筋書は不意の大夕立で少し狂いましたが、大体予定のとおり運ばれました。もっとも、夕立は人間業で拵えられるわけはありませんから、平次は喧嘩を馴れ合いと睨んだのは慧眼《けいがん》でした。それから、雨に当らないはずの千両箱が、ひどく濡れていたのも平次の眼を免れようはなかったのです。掏《す》り換えた砂利詰の千両箱を、同じ仲間がもう一度望んだのは、ちょっと腑に落ちませんが、それは源助の細工の細かいところで、大夕立に妨げられて、千両箱の引渡しが翌る日と決ると、急に、その偽物の千両箱を盗ませて、事件を更に複雑にしようと計画したまでの事だったのです。  予定のとおり引渡しが夕方あったとすると、千両箱の中から砂利や古金が出て来た時、一番先に疑われるのは、何といっても源助と鳶頭《かしら》の辰蔵です。夜中過ぎに千両箱がなくなる分には、深川にいるはずの源助だけは、少くとも疑いから除外されます。万一新墓から千両箱を見付けられたところで元々ですから、急に思い立った源助は内から、お兼に手引きをさせ井崎八郎と勘次に千両箱を三つ盗み出させて、昼のうちに見定めて置いた新墓に埋めさせたのでした。  店中の者の名を書いて、その晩外へ出た者のない事を平次に呑込ませたのは、脛《すね》に傷持つ源助の余計な細工だったのでしょう。  事件はこれで綺麗に片づきましたが、三つの千両箱の行方だけはどうしても解りません。  源助始め悪者の一味を、思い切った牢問《ろうどい》に掛けましたが役人をからかっているのか、それとも一人二人の外は本当に知らなかったのか、どうしても三千箱の隠し場所を白状しないのです。 「まだ娑婆《しゃば》に大事の仲間がいるんだろう。どんな事をしても三千両を捜せ」  笹野新三郎も躍起となりますが、処刑《おしおき》を覚悟で口を緘《つぐ》んでいるのは、全くどうしようもなかったのでした。  平次は毎日のようにお通の茶店へ行きました。 「その時、川に船はいなかった——、二人であの大夕立の中を三つの千両箱を持って遠くへ逃げられる道理はない」  平次はそういった見当で、橋の下、石垣、川の中、近所の物置、床下なと、隈なく捜しましたが、何としても見つかりません。  ちょうど一月目。  平次は捜し疲れて、お通の茶店の奥に、うつらうつらと居睡りしておりました。 「おや、もう正午《ここのつ》かい」  上野の鐘を遠く聞いて、思わず起き上ると、目の下の川の水肌に、何やら光る物が浮いております。平次はそのまま手摺を飛越えて、三尺の空地に腹這いになって、水の上をジッと見詰めました、 「灰吹《はいふき》の蓋《ふた》だ。——流れないのが可怪《おかし》いな」  棒を持って来てヒヨイと突いてみると、蓋の上の取手に紐が付いて、何やら水の底に沈めてある様子です。 「解った。これだッ」  平次の頭には、電光のような知恵が働きました。あれからちょうど一ヵ月目の新月、お月様の具合で潮のさしようが同じになったので、ちょうど真昼の干潮時《ひきしおどき》に、水肌すれすれに浮かした目印の栞《しおり》が見えたのでしょう。黒塗の灰吹の蓋ですから、水肌からちょっと下にあっては、断じて人目につく道理はありません。  それから船を出して、紐を手繰らせると、その下に千両箱が三つ、今度は正真正銘の、山吹色のを一パイ詰めたのが引揚げられました。 「親分さん、お日出度う。三千両|揚《あが》ったんですってね」  お通は背後から、美しい顔を差し覗かせました。 「お蔭で町方の恥にならずに済んだよ。これが見付かれば春木屋から百両の褒美が出るはずだ。お前にもとんだ苦労をさせたから、松吉と世帯を持つ足しに三十両やろう」 「あれ親分さん、そんな事を」 「あとの三十両で八の野郎に女房を持たせると」 「まア」 「まだ四十両残るが、これはお静と俺が湯治に行って、溜めた店賃を払って、残ったら大福餅の暴《あば》れ喰いでもするか」 「まア」 「が、それも捕らぬ狸《たぬき》の皮算用だ。三千両の金が手に戻ると春木屋はうけ合い、百両出すのがおしくなって、十両に負けろと言うぜ。その時は三両で我慢するんだぞお通坊、——世間並の金持は大概そうしたものだ」 「……」  お通はシクシク泣いておりました。十日あまりの万七の厭がらせな責《せめ》も、これですっかり償われたような心持だったのです。  それより可笑しいのはガラッ八でした。不意に店へ入って来て、聞くともなしに平次の述懐を聞くと、小さい舌打ちを一つ残して、およそ腹が立って腹が立ってたまらないといった様子で、川の往来へ飛出してしまったのです。ガラッ八は、まだ女房を貰う心持などは、毛頭なかったのでした。   (完)